ガイド日誌 |
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2004年8月31日
きょうは仏滅、そして台風16号が来襲
きょう8月31日はヤサイの日なんだそうです。ええ、語呂あわせなんでしょう。しかしスーパーの折込チラシをみてもどこにも野菜の安売りは見当たりませんでした。そのかわりに、台風16号がやってきました。 昨夕から弱い雨が降りつづいていました。テレビでは夜通し切羽詰まったような表情で刻々と全国の被害の状況を伝える台風情報。こうなると時勢に流されやすい僕らもおなじく切羽詰ったような気分になり早々に店の臨時休業をきめて台風の来襲に備えました。午前中にはいったん雨があがり曇り空。見上げると上空では雲がものすごい勢いで北へとすっ飛んでいきます。鉄道の防風林からはサワサワと、シラカバの葉のかすれ音。嵐のまえの静けさでしょうか。昼まえ、ふたたび弱い雨が降り出しました。わずかに風が出てきて油断のならない静けさのような気がします。来るか、来るのか台風。ようし、どっからでもかかってこいや!こぶしに力が入り、なんとなくソワソワします。午後になってTHOMMEN社製の気圧高度計の目盛りがぐんっと下がりました。お、お、お?んん?鼻息が荒くなります。妻もまた、大した用件もないのにちょこちょこと近所に車を走らせています。帰るなり何も異変がないことを残念そうに報告してきます。清楚でおとなしそうに見える(らしい)妻ですが、実はかなりのお調子者です。生後3ヶ月の娘もきょうはどこか興奮しているように見えます。ヤサイの日にちなんで野菜たっぷりのあつあつ味噌ラーメンを作り、腹ごしらえを済ませました。妻もラーメンの湯気に鼻を膨らませながら妙に納得しています。 こうして時間だけが過ぎていきました。夕方になり、いつの間にか台風はオホーツクへと去っていました。ほっと安心、ちょっとがっかり。肩透かしを食らったような気分です。ようやく夜になって多少の風が出ましたが、せいぜい前線の通過程度のよう。小さな小枝が駐車場に転がっているだけです。な〜んだ…。 きょうは仏滅。何か災難が起こりそうな予感。今朝の占いでもO型にとってきょうはあまり良くないという運勢。しかし気負うばかりで何事も起こらず、なんとも平穏とてものんびりした休日になったのでした。な〜んだ。おしまい。 現在午後11時。まんまるの月が夜空に浮かんでいます。ほほーぅ。満月かな? こうして北国の秋は深まっていきます。
2004年8月29日
秋の気配とマツタケ
十勝岳の山麓、「望岳台」の付近ではマツタケが採れるんですよ。ええ、ええ、もちろん本物です。シーズンはお盆明けから9月中旬にかけて。雨あがりの朝が狙い目です。マウンテンバイクのツアーでほぼ毎日通う道路の道端にはいつもマツタケ狩りの車が並んでいます。このあたりは大雪山国立公園域ですから厳密には「立ち入り禁止」、しかし地元の方にとってはずっと昔からの恒例行事なので、まあ、目くじらたてることはないと僕は思っています。今朝も籐で編んだ大きなカゴを背負っていそいそと森に入っていくお年寄りを見かけました。きょうはどんな収穫があったのでしょうか。こんなことにも秋の訪れを感じます。 先週あたりから朝起きると肌寒いと感じるようになりました。それもそのはず、早朝の気温が10℃を切ることも、もはや珍しくはありません。大雪山では紅葉が始まりました。稜線付近では紅葉した高山植物の赤いじゅうたんが見られることでしょう。いよいよ紅葉シーズン到来。スーパーの鮮魚売り場にはいい形の太った鮭が並び始めました。今年は豊漁になりそうだということです。また畑ではじゃがいもの収穫が始まりました。 秋の空は澄んだ空色をしています。夕焼けが、キレイなんですよね。
2004年8月25日
枝豆の季節
近所に住む妻の友人が両腕いっぱいに枝豆をかかえてやってきました。 陶芸家である優しいアメリカ人男性の夫をもつ彼女は華奢な外見からは想像もできませんが女3男1計4人の子供をもつ子だくさん母ちゃんで、さらにはダンスのインストラクターまでしてしまうというパワフルな女性です。しかも見かけはどこから見ても20歳代にしか見えません。すばらしい・・・。 もらった枝豆は青々と茂った茎葉がついたままで、たったいま畑から引き抜いてきましたよ〜、という感じのもの。彼女はまるでこれを花束のように英字新聞でさっと包み大事そうに抱えてきましたし、青々とした葉っぱはピンと張りつめていましたから、ぱっと見には花束に見えたかもしれません。 こうして今夜のおかずには美味しそうな枝豆が加わりました。 大きなお鍋にたっぷりの塩水を準備してぐらぐら沸騰させます。ここへたった今ちぎったばかりの枝豆をザザザと投入します。再沸騰したら3分。これ以上煮てはいけません。茹で上がったら、流水でサーッと流して素早く荒熱を取ります。こうしてシャキシャキの枝豆が出来上がります。新鮮野菜を茹でるときはトウモロコシでも同じ、この黄金の「3分間の法則」でとってもおいしく出来上がるんですよ。 もっとおいしく北海道。ああ、また太っちゃうなあ…。ま、いいか。
2004年8月24日
深紅の優勝旗、北の大地へ
この夏の高校野球の話です。 歓喜総立ちの観客で埋め尽くされた甲子園球場のスタンド。タイガースファンの僕には見慣れた光景です。しかしその様子は阪神タイガースの優勝のときとは明らかに違っていました。観客は奇声をあげることもなく、鳴り物を打ち鳴らすこともなく、一心不乱に拍手をしています。そこには無言の内側に駒大苫小牧の選手たちへの最大級の敬意が込められていたように思えます。 格好だけではないスタンディング・オべレーション、皆が静かに立ち上がり割れんばかりの拍手を送る5万人の紳士淑女。5万人の感動と敬意が込められた5万の手のひらの響き、それはテレビの電波からもズン、ズンと目には見えない響きを伴って伝わってきます。こんな甲子園球場を僕は見たことがありません。胸が詰まり、久しぶりに熱い涙があふれてくるのを感じました。 選手たちの活躍については数々のメディアで報道されていますから、もともと余所者である僕が生意気にここで粛々と語ることはないでしょう。コンサドーレも日本ハムも応援していない僕は真の道産子とは言えずただの北海道好きかもしれませんから何事も目立たぬようトーンダウン。しかしながら、あの深紅の優勝旗が津軽海峡を渡ることになろうとは!心からの拍手を送った甲子園球場の、そして全国の、北海道とは縁もゆかりもない人たちの胸を熱くしたものはいったい何だったのでしょう。 僕は四国の愛媛県松山市に3年間住んでいたことがありましたから決勝の対戦相手である松山市の済美高校を応援するのがごく自然な成り行きだったはずです。実際に、相手が駒大苫小牧でなければ愛媛県代表を応援したでしょう。当然です。 しかし、僕はなぜか駒大苫小牧を応援しました。日大三高戦の劇的な逆転勝利に興奮し、横浜高校戦も東海大甲府戦も固唾を飲んで見守っていました。このときの駒大苫小牧の戦いは誰の目にも 明らかな圧倒的優勢な大蛇に立ち向かう、名もなき戦士の姿が重なるようでした。この戦士たち、もしかしたら…、でもまさかね、と、全国のひとが思いはじめたことでしょう。 テレビ中継や観客を意識することもなく、ただ我武者羅(がむしゃら)に大蛇に挑みかかる捨て身の彼らの戦いはただ「強い」の一言では言い表せない鬼気迫る何かがありました。 そして決勝戦では遊びにきていた高知県生まれの母も、香川県生まれで一緒に松山市での新婚生活を送ったはずの妻までも大騒ぎで駒大苫小牧を応援していました。それはいかにも不思議な光景でした。理由はわかりません。ここが北海道だから郷に従ったのか?いいえ、決してそうではない、だって誰も見ていないもの。このように、きっと日本中で北海道旋風が巻き起こっていたのではないでしょうか。甲子園球場の満場の拍手を聞いていて、僕は自分と同じ熱さを感じずにはいられません。「深紅の大優勝旗、津軽海峡を渡る。」なんという素敵な言葉でしょうか。 どんなにもがいてもどんなに考えても、僕はこの感動を表現するうまい言葉を見つけることができずにいます。しかし、この先どんなに長生きをしても、もう2度とあんな甲子園球場を見ることはないだろうな。そんな気がします。本当にいいものを見せてもらいました。 最後に、今朝よんだ新聞記事のなかからの1文をここに引用します。
・・・・・・・選手たちは、決勝から1夜明けた23日午後の飛行機で大阪・伊丹空港から新千歳空港を経てバスで学校に到着。花火の大音響とともに、どよめきと大歓声が・・・中略・・・これに先立ち、選手たちが乗った機内では「みなさまと一緒に、深紅の優勝旗がいま、津軽海峡を越えます」との放送がかかり、乗客から大きな拍手が起こった。・・・・・・・・・・(本文略)・・・・・・
不覚にも、僕はふたたび泣けてきました。
2004年8月22日
損するひと
ガイドの山小屋を利用されるお客さんはリピーターや旅に慣れた北海道好きの方、家族連れが多いためか、とても気持ちのいい方が多く、他の同業の方々の話を聞くたび「自分はお客さんに恵まれているなあ」と思わされることが多いのです。しかし、すべてのお客さんがそうとは限りません。なかには「んんん???」ということも。 ツアーのお客さんにはまず見当たりませんが、夏のレンタサイクルには、ごくまれに“やばいひと”がやってきます。せいぜい1千人にひとりくらいですが、実に不愉快。なかにはお金をいだたいていない「お客さん」では無い方もいます。ガイドの山小屋はいちおう会社ですし、小規模ながら何度かリスクをくぐりぬけてきましたからこれまでの教訓から恐喝や言いがかりなどのトラブルが予想される場合は店内ビデオや雲行きが怪しいときにスイッチを入れて会話を残すフロント録音テープ、またメモなどで記録することにしています。これでトラブルの防止や処理は幾分容易にはなりましたが、しかし決してなくなるわけではありません。最近は形跡を消すために受付用紙を取り返して持ち帰るケースもありました。この方の場合、入店時から挙動が非常に高圧的で乱暴で、すぐに要警戒であることがわかり急きょ僕が受付交代したほどです。受付用紙は記入漏れのないようサッと目を通しますから氏名と都道府県だけはメモに残すことができましたが、住所の記録まではできませんでした。このようにトラブルを起こす人はひと目でわかるものの益々熟練し巧妙化する傾向があります。それと比べると万引きなどかわいいもの。トラブル・ノートのページは年々少しずつ増え、1千人にひとりのトラブルを未然に防ぐために、僕らはますます画一的な対応をしなければならない傾向にあります。 なんというか、そういう方から共通して感じることは、なるべくお金を払うことなく出来る限りの譲歩を引き出してお得だけを手に入れようという他愛のない欲。しかし態度や口調から“えげつなさ”があまりに見え見えであると僕らはかえって警戒してしまい、結局思ったような戦果が得られない。だからキレて荒れることになる。結局、あなた絶対損していますよ。ということになります。またスタッフには傲慢な方には決して付け込まれないよう毅然とした対応をするよう徹底しています。誰だって傲慢な人に親切にしようとは思わないですよね。僕らはひたすら客に恭順するよう教育された高級ホテル従業員ではなく、ごく一般的な凡人なんです。感じのいいひとには優しくなれるけど、傲慢なひとには来てもらいたくないと思ってしまう。困ってる人や事情がありそうなひとには手を差し伸べたくなるけど、すべて計算づくだとわかる人には関りたくないと思う。当たり前のことを当たり前にやっているだけなんです。 まあ、商売人としてはこれでは失格なんですけど。でも、いいんんです、いいんです。気持ちよく仕事ができることがいちばん大事なんですから。本当はコンビニのような画一的完全マニュアル対応がいちばんなんでしょうね。なかなか踏み切れないでいます。でも、いつか僕もそうなってしまうのかなぁ。いちばんラクで安全だもんなぁ。 閉店間際のお店にいくと時々「お兄ちゃん、サービスだからこれ持って帰りなよっ!!」と、倍以上のボリュームの商品をもらってしまうことってありますね。こんなときは差し出すほうも貰うほうも嬉しいもの。僕のお店も基本的には同じなんです。単純ですから。だからみなさん、うまく使ってくださいね。きょう高校野球で駒大苫小牧高が優勝したり、またタイガースが優勝したりしたら、ビールが振舞われたりいろいろ無料になったりするかもしれませんよ。なにしろ単純ですから、僕。 さ、そろそろビールを用意しとかなきゃ。
2004年8月21日
郷に従って楽しい田舎暮らし
「郷に入れば郷に従え」という言葉がありますが、それをつくづく実感するのは「町内会」や「小学校」など地域の様々な行事でしょうか。 僕の住む地域にももちろんあります。そして僕には今年、ついに町内会の班長サンが回ってきてしまいました。班長サン。この周辺十数戸のお世話係です。その仕事はというと、町内会費を集めて回ったり、回覧板をまわしたり、広報を配ったり、草刈りやゴミ拾いを仕切ったり、地域の神社(村社にあたります)の祭りのお世話、 会合の幹事など、まあ、雑事を中心にいろいろあります。最初は面倒だなぁと思ったものですが、今ではそれなりに結構楽しく務めています。 しかしながら困ったこともあります。このあたりは圧倒的に農家が多いため、行事も時間も農家のスケジュールにあわせた「農村カレンダー」で実施されます。ですから、 一般世間の休日になると忙しくなる私たちやペンション民宿の経営者にはちょっと困ってしまうことがあるのです。また、1〜2週間前に突然、「いついつが役員会だからあなたも必ず出席するように」「何時からあなたの班内の町道農道の草刈りを実施するように」といった具合に突然 決まったり。1〜2ヶ月前ならともかく、1〜2週間前になってその通達は突然やってきます。ひぇ〜〜・・・。 僕もすでに仕事の予定が入っている場合が多く、とてもとても困ってしまいました。 勤め人や自営業でも同様でしょう。出席を断れば良さそうなものですが、 狭い地域内のことで嫌とは言えない雰囲気、一切近所付き合いをしないという覚悟があれば構わないのでしょうが、それは言い換えれば無責任というもの。田舎で暮らすということは、濃厚な近所付き合いなくては考えられません。そのあたり、隣近所を意識しなくてもそれなりに普通に暮らしていける町での生活とは大変な差があります。 つい最近のこと、せっかく移住してきた家族が1年も住まないうちに去っていきました。その家族は美瑛の風景に憧れて移住を決意したという移住家族でした。しかし、 憧れの北海道田舎暮らしは決していいことばかりではなかったようです。地域との付き合いを頑なに拒んだ結果、生活を続けることが難しくなってしまったようでした。実際に少しもめたと噂で聞きました。生活スタイルは垢抜けた都市生活のまま、のんびりリゾート生活のような田舎生活 、そして人情に包まれて…誰もが憧れるのも無理はありませんが、 理想と現実はいつだって食い違うもの。移住者にもその地域に合わせて生活スタイルを変えていくという努力が必要なのです。 私たち本州出身者は地域の行事に積極的に協力するということにあまり慣れていなかったり、場合によっては抵抗があることもあります。地域の政治から教育に至るまで、なぜ 一切恭順しなければならないのか、中には理解に苦しむ慣習があることも歴然たる事実です。しかし、ある程度は地域社会に従順でなければ、よそ者である私たちの ような家族は平穏に生活していくことはできません。 地域のルールには、やはり黙って従うべきと思われます。抵抗すれば居づらくなってしまいますし、それに事情がわかってくるとなかなか合理的であることがわかり決して悪いものではありません(例外もありますが)。例えば、神社のお祭りの計画など、仕事への影響にさえ目をつぶってしまえば、みんなで作る素朴なイベントは学芸会のようでなかなか楽しいものです。 しかしながら、自分と地域とに温度差を感じるうちはその移住者にとって地域社会は超え難い高いハードルといえそうです。僕はここに暮らして8年になりますが、 まだまだコミュニティの一員になったとは言い辛く、会合などに顔を出してもメンバーの顔名前の半分もわからない、質問があっても言い出せなくてつい遠慮、といった恥ずかしい有様です。地域に根付くというのは簡単ではないなあと、つくづく実感してしまうのです。移住で直面する問題は、まず「就職」、それから次は「地域社会」 。北海道でも本州の田舎でも、移住で直面する最も大きな課題はきっとこの2点なのでしょう。それでも、非合理的なしきたりの少ない北海道は、決して移住しようとする者を拒まず、おかげで僕のような軟弱な者でもなんとかやっていくことができるのです。結構なんとかなってしまう。それが北海道。 おかげで慣れてくるに従いここでの素朴な生活がなかなか楽しくなってきました。 農村での生活は僕ら家族にとって何もかも新鮮で心地よく、以前の味気のない高層マンションでの生活と比べて生き生きとした精気に満ちています。 コンクリートのバルコニーよりも、おいしいキノコが生える木が転がっている原野のような庭のほうがいいに決まっていますから。 また、よく「冬が大変なんじゃあないですか?」と聞かれますが、四季を通して温暖で穏やかな瀬戸内育ちの僕 が寒いとも辛いとも思わないわけですから、さほど問題ではありません。スコップ1本ジャンパー1枚で子供でも誰でも乗り切れるわけだから別段、何てことはない、それに引き替え北海道の純白の冬は他に比類のない美しさです。これは決してお金では買えない価値あるものなんですね。 来てよかった〜。心からそう思います。
2004年8月15日
ちょっと、こわい話 「越前海岸」
お盆も終わりです。ま、ここらで怖い話をひとつ。 10代のころの僕にも人並みにいわゆる「多感」な頃があったのですが、数ある多感のなかで、ちょっと普通の人と違ったところがありました。それは多少「霊感」があったことなんですね。 それは夏の終わりのある日のこと。当時僕は大学生で夏の後半の旅行を北海道バイク旅と決めて日本海沿いを北上している最中でした。神戸を出発して鳥取、丹後半島、ゆっくり北を目指してその日の野宿地は福井県越前岬付近の海岸にある松林でした。翌日以降は北陸を日本海に沿って北上をつづけ東北へと向かうことにしていました。その途中まで友人の村尾君が同行していました。 僕らは国道沿いの松林のなかにテントを張り、持参した食料で簡単な夕食を済ませました。その夜の僕らの野営地は波音と浜風が心地よい場所で、決してキャンプ場ではないのですが地元の方には簡潔なキャンプ場のように利用されているようでした。その日も僕らのテントから100mほど離れた場所に素もぐり漁の男性2人のテントが1張あって、僕らが早めの夕食を済ませてまどろんでいると、一緒に飲まないかと声をかけてくださり、焚き火で焼いたアワビやサザエ、そしてお酒などをご馳走になりました。ですからその夜の僕らはとても満ち足りた気分だったのです。 幸せな気分でテントに戻って寝支度を整えて横になり、僕らは少し話をしました。旅の話、オートバイの話。それからまもなく、どちらからともなく「おやすみ」と声をかけて寝袋に入り、2人とも潮騒に耳を澄ませました。僕はこれから目指す北海道のことなどを考えていました。夜が早いので眠くはありませんでした。まだ10時にもなっていなかったと思います。 さて、村尾君におやすみを言ってから1分もたたないうちに、僕らのテントにひとり、お客さんがやってきました。 ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。 松林のなか松葉を踏みしめる音はよく響きます。右足、左足、右足。交互に運ばれる足。ザッ、ザッ、ザッ。テントは薄いナイロン地1枚で、中の音も外の音も、ほんの溜め息ですら筒抜けです。足音は横になっている僕らのすぐ耳元までやってきて止まりました。頭のすぐ後ろ、つまりテントの正面です。その日僕らの頭はテントの入り口にありました。ジッパーを少しあけて顔を出すのが好きな僕は、ときどき出入り口に頭を向けることがありました。 足音が近づいてくるその間、僕は別に何の疑問も持ちませんでしたし、特に不審に思う理由はありません。またあの人たちが何か声をかけに来たのかな?何だろう?また何か食うのかな?でも、もうお腹いっぱいだよぉ。でもお酒なら飲めるかな。その程度のことしか考えなかったのです。村尾君も同じだったと思います。 ところが、すぐ耳元で止まった足音は、僕らの頭からほんの数10センチのところで立ち止まったまま、まったく動こうとしません。足音の主はテントの正面に立ち、ナイロン地1枚隔てて僕ら2人を見下ろす形になっているはずです。てっきり声をかけられると思っていたのに、しかしいつまでたっても声はかかりません。右手を伸ばせば届くところにある足音の主。しかし沈黙。10秒、20秒・・・、沈黙はすぐに不気味な「間」に変わりました。絶えられずに最初に声を出したのは僕です。 「なんやろな?」 村尾君がすぐに起き上がり、入り口のジッパーを「ジャッ」と一気に引き上げました。それから「ええ〜〜〜〜!!」素頓狂な村尾君の声。すぐに僕もテントから首を出しました。そこには、目の前にいるはずの足音の主の姿がありません。 あたりは浜風が涼しい松林、見回しても誰もおらず、また特に何も変わったことはありません。時々、少し離れた国道を車のヘッドライトの航跡が通り過ぎていきます。100mほど先には酒肴をご馳走してくれた素潜り漁の方のテントがあり、寝床の準備なのでしょう。中で人が動く様子がまるで影絵のようにテント生地に映し出されていました。焚き火は消されて、残り火がわずかに燻ぶっているだけです。もちろん、誰か僕らのところまでやってきた様子など皆無です。 もう一度あたりを見回しました。何度みても同じ。松林と潮騒。夜の海辺には誰もいません。僕らの耳元数10センチまで松葉を踏みしめてやってきたお客さんはどういうわけか跡形もなく消え失せていました。立ち去ったとしても、足音がしないはずはないのです。すぐ耳元ですから。 「????」 素早く事情を察した僕らはテントのジッパーを固く閉ざし、すぐに寝袋に潜りこみました。19歳の頃の僕はこの程度のささやかな怪現象には慣れていました。しかし、村尾君は慣れてはいませんでした。ほんの少しの物音にも敏感に反応し、何度も飛び起きては外を見ていました、「聞こえる!聞こえる!」とわずかな物音にも怯えて気の毒なほどでした。僕らは風の音にも、潮騒の音にも過敏になり、夜の闇に押し潰されそうなひどい気分になってしまいました。早く寝てしまいたいのに目が冴えてしまい、満ち足りた夜は一転、長く心細い夜になってしまったのです。しかし、幸いなことにその後足音がやってくることはありませんでした。
いつの間に眠ったのでしょうか。翌朝目が覚めるとすっかり日が高くなっていました。素麺だけの朝食を食べ、昨夜ご馳走してくださった2人の男性に朝の挨拶をして、何事もなかったかのように昨夜のご馳走のお礼と、それから少し世間話もしました。でもなぜか昨夜の出来事は話しませんでした。 それから自分たちのテントの周辺を歩きました。少し離れたところには素潜り漁の道具が収められているのでしょうか。倉庫に使われているバンガローテントのようなものが2、3基あっただけで、それらもしばらく利用されたような形跡はありません。あとは海が広がっているだけでした。西に向かって水平線。きっとここからの夕日は美しいことでしょう。今でもよく覚えています。 少し不思議な気持ちになりながらテントを撤収して荷物をオートバイに積みました。僕の旧型オートバイは国道の脇の少し広くなった駐車帯?に置いていました。昨夜は薄暗くなってから着いたので気付かなかったのですか、そこには何か石碑のようなものがあります。ん?石碑? 「×××慰霊碑」 あああ・・・。僕はすべてを理解しました。ひぇええ〜と村尾君はまたしても素頓狂な声を上げました。村尾君は僕の「霊感」に巻き込まれたことを少し恨んでいるようでした。無理もありません。実はこれが2回目だったのですから。村尾君にしてみれば、迷惑このうえない話です。 しかしながら、そのときの僕は、今思い出しても不思議なくらい「怖い」という気持ちが沸いてこなかった。いくら慣れていても、怖いときにはほんとうに怖いものです。でも、このときは怖くなかったのです。悪意に満ちた霊体験は恐ろしいものです。言いようのない寂しさ、底知れぬ不気味さ、わけのわかならい珍現象、渦巻くどろどろ・・・いろんなタイプがあります。しかし、昨夜の出来事は後に尾を引くような恐怖感はなかった、そんな気がしたのです。 そのあとも僕は落ち着いて準備を整えました。旧型オートバイのエンジンも機嫌よく1発で始動しました。村尾君はいつにも増して早口で喋り続けながら準備を素早く済ませました。そして、何事もなかったように僕らは北へ向かって走り始めました。能登半島の手前で僕と村尾君は別れました。彼は琵琶湖へ向かい、僕は北を目指しました。ひとりになって考えました。昨夜のあの足音はいったい何を僕らに語りかけたかったのだろう?なぜ?僕らに?そんなことを考えながら。
ところで、残念ながら今の僕には「霊感」らしきものはありません。理由はわかりませんが、さて、どこかに置き忘れてきたのでしょうかね?もしかしたら10代の多感な時期と何か関係があったのかもしれませんね。
2004年8月14日
秋の気配と夏の終わりの向日葵
ニュースではUターンラッシュが報じられ、古都では大文字の送り火が執り行われ、そろそろ夏も終わりだな〜と感じ始める残暑のころ、一足先に北海道では秋の気配を感じるようになります。ここ美瑛でも数日前まで続いていた猛暑がある日突然に終わり、それ以来、いかにも北海道らしい涼しい日が続いています。 夜には窓を閉めて眠るようになりました。しばらく使っていなかった羽毛布団を取り出し、ふわふわ暖暖(ぬくぬく)も楽しむようになりました。夜の街灯の下にいつも見られたクワガタ虫はいつの間にか姿を消し、かわって辺りの草むらからは秋の虫の合唱が聞かれるようになりました。山では高山植物の季節が終盤をむかえ、リンドウなど紫色中心の秋の色が目に付くようになりました。夏には草の香りいっぱいだった山道は、いまは土の香りとハイマツの松ぼっくりの香りに包まれています。まもなく紅葉の気配を感じるようになるのでしょう。 いっぽう、この夏の美瑛の丘の「パノラマロード」周辺では、あちこちに見事な向日葵が見られます。休耕田(畑)に植えられ緑肥として利用されるのですが、ちょうど今が見ごろでしょうか。これらは決して観光用ではありません。誰かに見てもらうために植えられたわけではありませんから、観光用のお花畑のような仕込まれた白々しさがありません。堂々と立ち、風に吹かれて、大きな花を精いっぱい太陽の方向に向けて、わいわいガヤガヤと咲き競っています。僕はこういう素朴な風景にこそ、本当の美瑛の風景の良さがあるんだなと思っています。いっぽう、すっかり観光地になってしまった「○○の木」や「○○の丘」などと名付けられた辺りでは、今では原風景の趣も季節感もほとんど感じることは出来ません。いかにも「観光地」という雰囲気。少し残念なことです。 それでも夏が終わり人が去り、秋が深まるにしたがい「観光地」の風景も再び美しさを取り戻します。しっとりとした、セピア色の季節です。もう大型バスもレンタカーも見られません。遠くの山には白いものが見られるようになり、まもなく里にも初雪が訪れようという秋の頃。そんな一見寂しいような季節が僕は好きです。
2004年8月8日
足りない・・・
今年もお盆休みが始まりました。きのうあたりから急に来店客が増え始めて今日になると貸し自転車が不足し始めました。昼過ぎにまず電動自転車が品切れになり、続いてマウンテンバイクが品切れになってしまいました。最近は数年前までのようにオプショナルツアー(ラフティングやトレッキングなどの体験プログラム、通称「ツアー」と呼ばれています)への参加志向が低くなり、かわってレンタル自転車が活発です。ここ2、3年は夏休みになるとほとんど休む暇がありません。 自転車が足りない・・・、特に電動自転車が足りない・・・。でも買えない。レンタルに使用する電動自転車は1台12万円もするんです。これでは、なかなか買えないなあ・・・。 レンタル自転車が続々と戻ってくる夕方、電動自転車が品切れの時間に来店した女の子2人が日焼けと疲労で顔を真っ赤にしながら戻ってきました。受付のときは笑顔いっぱいだった彼女たちは、返却手続きのときには別人のようにものすごく不機嫌。なんだか申し訳ない気持ちになってしまいました。彼女たちはママチャリで出かけたのです。暑いし坂は多いし大変だっただろうなあ。う〜ん・・・ゴメン。 もう少し安ければ、増車することも易いんですけど。せめて家庭用並みに5、6万円くらいになってくれないものだろうかと思います。 なるべく化石燃料を使わないというスローガンで山岳ガイドオフィスとして始めた店なので、排気ガスを排出する原付バイクは導入したくはありません。人力や&リチウムイオン電池使用の観光ならば環境へのインパクトは限りなく低いんですよ。北海道にはピッタリだと思います。あとは値段かな。1時間600円のレンタル料では車体価格12万円の電動自転車が買えるはずもありません。不足とわかっていても増車することもままならないんです。足りないのに買えない。なんだか矛盾してますね。
2004年8月6日
女性ばかり
7月のツアープログラム参加者は、なぜか女性ばかりの日が続きました。8月に入ってからもこの傾向が続いており、7月の男性参加者はわずかに3名、8月は今のところ0名。なぜ?どうしてでしょう? 僕、男性に冷たいんでしょうか?いえいえ、決してそんなことないと思うんだけどなあ・・・。 女性ばかりのツアーだと、参加者はなんだかちょっと寂しそう。やっぱり元気な男性参加者がいたほうが盛り上がるんです。例えば、大声で笑う真っ黒に日焼けした男の子がいたら、なんだか全体が笑顔に包まれるんです。でも、残念なことに男性たちの多くは一人でレンタカーなんですよね。う〜ん・・・ 今年の北海道は毎日暑い日が続いています。きょうも30度を超えそうです。それでも夕方になると秋の虫たちの声が聞こえてくるようになりました。
2004年8月1日
暑い!
といっても、たかが北国 だろう?と侮ることなかれ。今年の北海道はとても暑いのです。ここ3年ほど急激に増えてきた台湾からの旅行者。沖縄よりも南にあるアジアン・モンスーンの国、台湾から来る人たちですら「Very hot」と苦笑いする今年の北海道は、いったい何なんでしょう? 8年前にこちらに引っ越してきたときには「必要なことがあるんだろうか?」と半信半疑の思いでなんとなく持ってきたエアコン。ここ何年か故障したままで放置していたのですが、そう、放置しても何とかなるくらいの暑さだったからです、いつもの夏は。そんなエアコンを捨てるのも勿体無いからと思い切って修理したのです。すると、修理が完了するのを待っていたかのように連日の猛暑が始まり、エアコンは毎日フル稼働。30度を余裕で超える暑さは僕が忘れかけていた本州並みの暑さ。たら〜り流れる汗、外はうだるような熱気、かれこれ1週間ほど続いているでしょうか。思えば僕が小学生のころ夏といえばこれくらいの暑さだったと思います。夏休みの遊びといえば水泳ぐらいしか思いつきませんでした。海辺に住んでいたこともあって小学生のころは毎日海にプカプカ浮かんで過ごしたものですが、そんな2、30年前の瀬戸内の夏と、今の北海道が同じくらいの暑さになってしまったんでしょうか・・・。 そんな北海道の猛暑ですがようやく峠を越えたような気もします。最高気温の予想も明日は29度まで下がりました。これからお盆にかけて夏は足早に遠ざかり秋の気配が漂い・・・と、いつもの年ならばそうなるはずなんですが、しかし油断は禁物、今年はどうなるんでしょうね・・・。 さて、北海道の夏のうまいものとして人気があるのは何といってもメロンです。今年のメロンはね、このところの暑さのおかげで、と〜っても甘いです。ところで、お土産でメロンを買うときは、ぜひスーパーマーケットを利用されることをおすすめします。空港ならば1500〜3000円もするメロン1個が、こちらでは500〜900円くらい。送料も一般よりずっと安くなります。お得ですね。
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