ガイド日誌
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2005年2月28日(月) アウトドアには、お茶?珈琲? でっかい夕陽を眺めながら豆を炒り、コーヒーをいれる。焚き火の煙に燻されて黒く煤けたパーコレーター、ずっしりしたカップからは、あたりを包みはじめた冷気に逆らうように湯気がたちのぼる。苦くて香り高い液体が男の舌を焼く。う〜ん。男っぽくてカッコイイ・・・。 かつて僕もそんなカッコイイ男を目指したことがあった。実際、前述のようなシチュエーションで珈琲を飲んだことは数知れない。コーヒーは大好きだ。コーヒーが演出してくれる雰囲気というのもまた大好きだ。今でも焚き火を起こすと珈琲をいれる。焚き木がはぜる香ばしい香りにはやっぱり珈琲が合う思う。豆は軽く炙ってから挽くといい。大学生のころ元町(神戸)の金物屋で見つけた真鍮製の携帯用小型ミルで、炙ったばかりの熱い珈琲豆を荒めに挽く。もうそれだけで、たまらない、いい香りが辺りに漂う。飲む前からもう、「今のオレはすんげぇカッコイイんではないか!」という興奮とか下心みたいなものに包まれるのも悪くない。珈琲というのは飲んでも飲む前も妙に興奮するものらしい。 しかし、だ。 本当の僕は実はヘビースモーカーならぬヘビー“お茶飲み”だ。茶は煎茶、番茶やほうじ茶はあまり好まない。新茶には妙に興奮する。ボージョレヌーボーのことはあまり有難いと思わないんだけど、新茶はうれしい。値段は高いんだけど、新茶には瑞瑞しい新緑の香りがあって、その香りは緑の野山を思い浮かばせる。太陽の味がする。新茶を頂かないことには日本の初夏ははじまらない。残念ながら珈琲からは野山を連想させる何物も感じない。 抹茶も好きだ。僕は抹茶を自分で点てる。茶器はもちろんマイ茶せんも持っている。でも茶釜はないからポットのお湯を使うんだけど、湯はちゃんといったん陶器の入れ物に移し変えてから使う。こうすると湯がまろやかになる。NHKの「趣味悠々」でチェックしたんだけどね。(見てるのか〜!) いちおうの作法を習得していて良かったと思うこともある。正座は6歳からずっと続けていた剣道のおかげでなかなかキマっている。(と自分では思ってる) もし、接待をうけても大人らしく堂々と振舞える。(と思ってる) 金沢の兼六園を訪れたとき、茶室にあがり接待を受けたのだが、一応の作法のおかげで恥をかかなかったし、日本画のような歴史的な精神世界をいっそう堪能できたと思う。実のところ僕はかなりの和風人間だ。肉よりも魚料理を好み、イタリア料理よりも懐石のほうが興奮する。デパ地下で買ってくるのは中華か松花堂弁当だ。自分でも和食を好んで作る。昆布と鰹からダシを取るし、味噌もあわせる。包丁を握るのは楽しい。(うまいよ) 茶のお手前・作法は独学だ。おおかた妻や母から習ったのだが、夢は茶の湯を千家に習いにいくことだ。20歳くらいからずっと思っていた。最初のうちは「女性ばかりでかっこわりぃ」という理由で踏み出せなかったし、そのうち俄かに忙しくなった。そして今は侘び寂びとは無縁の北海道の欧米っぽい田園風景のなかに暮らしているから、どこにもお茶の教室なんてない。僕の作法はずっと進歩しないままだ。それに今は足が悪いから、正座もできない。 花の咲き乱れる稜線で腰をおろし、一服のお茶をたてることができたら、どんなに素敵だろう?山々を駆け巡る風と抹茶の香りが入り混じったとき、どんな世界が広がるだろう?そのとき僕の体は周囲の草木と一体となり、緑の斜面に還っていくだろうか?そんな一瞬を体験したい。 今の入院生活にも茶は欠かせない。緑茶はもちろん、流しにはずらりとハーブティが並んでいる。主に飲むのはインスタントコーヒーだけど、朝と晩、寝る前とレモンスーザーやオレンジリフレッシャー、カモミールなんかを愛飲している。リラックス効果は珈琲の比ではない。茶の世界は実に多種多様でいろんな世界を楽しめる。 では、アウトドアにはお茶が合うのか珈琲なのか?なかなか一概にはいえないけれど、ビジュアル的にカッコイイのはやっぱり珈琲か。精神的な豊かさでは比べるまでもなく茶だろうと思う。でも、コーヒーは手軽だし今はインスタントも充分にうまくなった。軽量、簡単という意味でもコーヒーが圧倒的に優れている。それに、うまいし。 合理的なインスタントコーヒー。カッコイイのは豆から入れるコーヒー。精神世界が広がるお茶。あ〜迷うよな〜。 優柔不断なボクはいつもそのときの気分でコロコロ変わるかな。 2005年2月27日(日) 電気ポット ボクの旅の必需品 旅でのプチ不自由というお題目で話し始めたら、誰しも話題に事欠かないんじゃあないだろうか。たとえば泊まった御宿の部屋にはお湯がない!あることはあるけどヌルい!それに、何となく「お湯をください」とは言いにくい雰囲気・・・。で、結局あきらめてしまう。そういうことで困った諸兄は多いんじゃあないだろうかと思う。ええ、ええ、僕なんかしょっちゅうです。安宿に泊まるからですね。お湯がなければコーヒーも飲めないしチキンラーメンも大好きな「マルちゃん焼きソバ弁当」も食うことができない。ほんとうに困ったことになってしまう。それは困る。ほんとうに困る。 また、決して少なくない諸外国ではそこに、「この水かなりヤベエんだけど、でも沸かせないから飲めないし、でも飲まないと干物になっちゃうよ、どうしよう・・・」という切実な問題まで関ってくる。そう、世界中どこでもお湯は必要だ。ボーダーレスの時代、お湯は世界をかけめぐる。だってお湯がなければ、こっちの身がチキンラーメンになっちゃうよ。(ちょっと大袈裟になっちゃった) 前ふりが長くなった。要するに肝心なことは旅にはお湯が必需品だということだ。お湯というか、お湯を沸かす道具。別に焚き木と薬缶でもいい。実際、山師(造林作業員)たちは薬缶一個鍋ひとつ、あとは味噌と米をもって山に入り、なかなか帰ってこないから。お湯さえ作られれば、あとは何とかなるだろう。(なんだかサバイバルっぽくなっちゃった。) 旅行用品のなかには昔から電気ポットがありますね?あれはいい。なんだかほんとに必要かよ?と疑いたくなるような、例えばアイマスクとか耳栓とかスリッパとか、無ければ無いで何とかなる雑貨品に圧倒的に占拠されている旅行用品コーナーにおいて脇のほうにちっちゃくなってチョコンと置いてあるけれど、国内外を問わず、これくらい僕らの役にたち、生命の維持やホッと一安心に貢献しているモノはないとおもう。僕は断言する。旅に必要なもの、それは1個の電気ポットと日本製コンドーム、パタゴニアのシンチラ製アンダーウェア上 下なんだ!(どひゃー!) 旅行用電気ポットもいろいろある。コップ2杯分くらいを沸かす小型ポットもあるし、あまり見かけないけれど、カップのなかにコイル状の電気発熱体をドボンと落としてカップごと沸かすという超シンプルなものもある。またクッカー型の電気ポットならば米も炊ける。お粥も作れる。味噌煮込みも作れる。クッカーに残るニオイさえ気にしなければね。(特にモツ煮込みのあとはクサイんだ) 日本中世界中どこにいっても電気とガソリン灯油だけは手に入るのだ。それに、どんな安宿だってコンセントくらいはある。安旅館のポットのお湯のヌルさにいつもげんなりしている諸兄は今すぐ電気ポットを手に入れよう。そうすればもう宿の台所のドアをノックして「あのう・・・お湯、ください・・・」と頼みに行く何ともいえない侘びしさから開放されるだろう。堂々と好きなときにコーヒーをのみ、日清きつねどん兵衛を食うことができる。素敵じゃあないか!(イエーイ!) かくなる僕はいま入院生活において旅行用電気ポットを愛用している。病棟にはどこにも給湯がなく熱湯が手に入らないのだ。蛇口をひねるとお湯がでるけど、ヌルいから飲んでうまい湯ではないし、これじゃカップヌードルは悲惨なぶよぶよのカタマリになってしまう。とはいっても真面目な電気ポット(押したらジャーと出るやつ)を使うと電気代1日50円也を課金されちゃうから、こっそりゲリラ的に旅行用電気ポットを使って湯を沸かすのだ。ちょっとしたスリルがある。 毎朝、看護婦さんが来ない時間を見計らって旅行用電気ポットを取り出して、「はやく沸かんかいコラッ!」とかいいながら電気ポットを恫喝しつつヤキモキしながらお湯を沸かし、沸いたらすぐにテルモス保温水筒に移し変えている。そして使った電気ポットはすぐさま片付けてしまう。そのあとは口笛なんか吹きながら「おれ、何もしてないよ♪」という顔をして看護婦さんの鋭い目をそらす。なかなかサバイバルだ。我ながら不良っぽい。(ないない) こうして僕は入院先でも快適お湯生活をおくる。1日50円をめぐって病院というか社会にギリギリ反抗しているみたいで、ちょっと不良っぽくてカッコイイ。 ということできょうの日誌はおしまい。はぁ〜、コーヒーのもう。 2005年2月26日(土) 北海道は寒いでしょう? 道外に出て、「どこから来たの?」と問われて「北海道です」と答えたら、2、3の受け答えのあとは必ずといっていいほど「寒いでしょう?」と言われる。 こういう受け答えは北海道在住の人ならば誰もが経験しているはずだ。それも、毎回必ずだから少々辟易とする。(ほかにないの?) そういうときは「ええ、寒いです」と答えておいて面白いエピソードのひとつふたつ聞かせれば相手は満足するんだけど、でもね〜、こっちとしてはなんとなく面白くない。なんとなく見下されているような気がするのだ。(かなり) 受け答えが面倒なときや機嫌がいいときは、あいまいな返事をかえしてお茶を濁すところだけど、機嫌がイマイチなときやちょっと生真面目になってるときなんかは、そういうわけにもいかない。これはいけない。誤解は解かなければ。そういう使命感が僕を駆り立てる。(単にムッとしてるだけだけど) そこで、そんなに寒くはないんですよ。という話を展開しはじめる。服装からはじまって車の運転とか交通のこととか流通のこと。北海道のことをあまり知らない人は冬の北海道が悲惨なところだと信じているから、意外と普通だということに失望する。その人の持つイメージがことごとく否定されていく。そして、そのうち明らかに顔には不満のいろが浮かびはじめる。顔は笑っていても、目が笑っていない。そんなこと聞いちゃいねえんだヨ。と今にも叫びだしそう。でもねえ、そんなに悔しがられてもねえ…。(否定する気はないんだよ) 冬の北海道は冬山の北アルプスのようなところだと信じている人は意外と多い。はじめて冬の北海道に来る人のそれを服装が物語っているが実際にはハンガリーの首都ブタペストやオーストリアのウィーンを訪れるくらいの服装でいい。旭川でも北欧くらいといったところ。そう、決して冬山じゃあない。もちろんアラスカでも南極でもないよ。お、お、おじさん、そんなに頑張らなくていい・・・。それじゃまるで冬山登山じゃないか・・・。いくらなんでも羽毛パンツにスパッツは余計だと思うんだけど・・・。(おじさん、大汗・・・) きょうも女子高生は街をナマ足で歩いているだろう。といっても本州の人は信じないだろうけど。真実を語るのはほんとに難しい・・・。(難しい・・・) 2005年2月25日(金) アウトドアは安全? 残念ながら僕の答えは否。いつか誰かが死ぬ。 と、いきなり過激な書き出しをしてしまったが、イエスかノーかと問われて直答すればこうなる。アウトドアは決して安全ではない、と。 まだ店舗がなかったときから数えて僕がこの仕事で報酬を得て、にわかにプロガイドになってから10年になるが、実のところ5年に1回の割合であわや死亡事故という出来事に遭ってきた。きわどいケースも含めればもっとあるだろう。 ガイドの山小屋は、「去R川海舎(やまかわうみしゃ)」という法人が運営している。まあ、いまのところガイドの山小屋しかないから、ガイドの山小屋イコール山川海舎ということになる。代表は僕だから、つまりこれが僕のあだ名の由縁になっている。 文字通り山や川や海に関するいろいろな面白いことをやる会社、ということだけど、実際に野山や川でいろんな遊びを楽しんできた。何をやっても楽しかった。でも、やっぱり危険なこともあったのだ。 ここ10年で一緒に遊んだ人の数は団体とレンタサイクルを除いても、延べ人数では数千人にのぼる。こうしてみると驚くべき数字だ。10年はあっという間だったけど、いつの間にか数千人。ほんと、いつの間に??我ながら驚愕してしまう。 ここにまた驚くべき統計数値が現れた。死亡一歩手前の事故は5000人に1人という、これまた驚愕の数字だ。決して小さな確率ではない。言うまでもなく飛行機や車の事故よりも断然高い。これまで、実際には死亡事故はないけれど、このまま続けていけば、きっと15000人〜2万人に一人という確率数値で「その日」がやってくると予想される。つまり、それは将来必ず起こるのだ、という宣言を突きつけられたにほかならない。厳しい現実がここにある。 いろいろな努力を行ってきた。あるとき(数年前)、そのレスキュー活動は成功したけれど、その後スタッフや僕に深刻なトラウマを残したという深刻なケースがあった。川での遊びのトラブルだ。それからというもの「安全」のために年間売り上げの半分以上を注ぎ込んだこともある。頻繁に講習に通い、いくつかの資格も取得した。いろんなものを買った。人を雇い、育成した。僕が安全にかけたお金は1千万円を軽く超える。それだけ必死で取り組んできたわけだ。僕の、アウトドアでの安全に賭けた努力と熱意はほかの誰にも負けはしないと自負している。実際に僕は自身も何度かきわどい体験をしているし、仲間や顧客のきわどい瞬間に立ち会ってきた。また数々の山や川でのレスキュー活動を経験したので、「安全対策」というのは決して他人事ではなく、いま、まさに我が身に迫る危機だったのだ。1000万円は高くない。その一部は借入金としていまだ経営への重い負担となって残っているけれど、その重みはすなわち「安全」に賭ける誓いと揺るぎない実績となって僕らの理念のひとつになった。 今年、スタッフが仕事中に雪崩に埋まった。規模は小さいながら非常に深刻なケースで、話を聞けば聞くほどにまず助からないケースだと思われたが、いくつかの偶然と自身の超人的な努力の甲斐あって彼は生還を果たした。生き埋めになったガイドにとって恐怖の体験だったはずだ。彼は多くを話さないが、気持ちは痛いほどよくわかる。山好きの人のなかにはときどき自分が経験した山での修羅場(雪崩に巻き込まれた等)を声高に語る人がいるが、九死に一生を得た経験というのは、そんなに軽々しく語れないものだと 思う。そのガイドは極めて慎重に言葉を選んで説明してくれたが、いつまでも顔はこわばっていた。彼は謙遜するが、ベテランなのだ。僕は思った。どんなに気をつけていても、やはり事故は起こるのだ。避けられないだろう。 いま入院している僕自身の怪我は決して深刻な事故ではなく調子に乗った末のお粗末だ。しかし、右足よりも先に体あるいは頭が衝突していれば(立ち木への激突)無事ではなかった。頭蓋骨のかわりに足の骨と靭帯が粉砕したから僕は命を拾った。いい歳をして僕はしょっちゅう怪我をこしらえている。まるでガキだな。 僕はいま、このままこの仕事を続けていくべきか悩んでいる。この仕事はいい。とても素敵な仕事だ。天職だと思う。しかし、将来誰かの身に危険が迫ることを考えると、そんなことは言っていられない。それにこの仕事は収支は至ってお粗末。普通の人ならばアホらしくてやってられないだろう。事業としての魅力は、実は皆無といっていい。はっきり言うと貧乏くじに等しい。道楽同然の状況で続けてきたが、これ以上財産を減らすわけにはいかないという超現実的な問題にも直面している。 では、今までなぜ続けてこられたのか?それは、この仕事が好きだったから。熱いものがあったから。でも、どうやらいつまでもそんな「青いこと」は言っていられないみたいだ、ということがわかってきた。収支はともかく、誰かを危険な目にあわせたり亡くすことは絶対にできない。アウトドアは楽しいけれど、その分だけリスクが高すぎるのだ。対策には限界もある。 この仕事、もしかしたらそろそろ転換期だろうか。 2005年2月24日(木) お客さんから受け取ったお金 いまマネーゲームがホットらしい。みなさんおなじみの、ライブドアとフジテレビの株取得合戦。まあ珍しくもないマネーゲームだけど、まいどお騒がせライブドアが花火をあげたものだから世間の注目を浴びた。ライブドアとしては得たりということだ。この広告宣伝効果は何十億円分にもなる。これもしたたかなマネーゲームの1部だ。僕はかつて広告代理店に勤めていて、メディアを使って利益を誘導するという行為を専門的に行ってきたから、そのへんには詳しい。なんとか世間の注目を浴びたい各社は羨ましい限りだろうと思う。近鉄球団買収のころから始まったこの「無料全国売名キャンペーン」なわけだけど、ライブドアは最初からちゃんと一般ピープルの動向をしたたかに計算し尽している。そして我々一般ピープルはこれを裏切ることなくそのとおりに反応している。ライブドアの役員の皆様は筋書きどおり思い通りに繰り広げられる下々の者どもの騒ぎを見下しながらクールに笑っているだろう。滑稽だ。僕もあなたも一般ピープル。彼らに計算され手のひらで思い通りに転がされている。すべてお見通しなわけだ。なんとなく悔しいよね。 でも考えてもみてほしい。ライブドアの「金」はすべて、もともと「お客さん」の金だ。貰った以上は当然の報酬だからどう使おうがそれは自由だ。しかしあなたが思い切って支払った大切なお金は彼らのゲームに使われている。これは、なんとなく気持ちのいいものではない。 投資家にしても同じだ。その会社の熱意に大切なお金を賭けた(預けた)というのに、これはいったい何だろう?人のお金をいったい何だと思っているのか? 利益は顧客や従業員あるいは社会のために使ってこそ義ではないかと思う。僕の知り合いは個人営業のささやかな利益で各客室にエアコンを取り付けたし、風呂を手直しした。いつも季節の花を挿し、備品にも気を配る。決して自分の懐には入れない。商売にはそういう義の部分が大切だ。マネーゲームの幼稚な騒ぎはまあ 客観的には面白いけれど、ふとそんなことを考えると気持ちが暗くなった。 2005年2月23日(水) 車椅子からみた町 車椅子ひとり旅 1週間前、四国高知に住む祖母の危篤の報をうけて急きょ入院中の病院を抜けた。祖母には子がないため、22歳のとき養子になった僕が世話をしている。 ほんとうの祖母は地震で亡くなり、いまの祖母はその妹だ。でも僕にとっては幼いころから可愛がってもらった「お婆ちゃん」だ。祖母は僕が会いにいくと顔をグシャグシャにして喜んだものだ。早く行かなければ。事は緊急だから入院中なんだからと言っていられない。車椅子&松葉杖2本持参で飛び出した。 結局、高知に着いた僕が最初に行ったことは祖母の遺体を引き取ることだったけど。 ここで話すのはそんなお涙頂戴話ではない。不自由な体の僕の闘いはここからが本番だった。文字通りの悪戦苦闘だ 。 まず困ったのがタクシーだ。僕の車椅子は特殊なもので折りたたむことができない。小型車ではトランクに積めない。クラウンか、それに相当する大型の車でなければならない。1度だけだが露骨に嫌な顔をされた。お客なのに尊大な態度をとる運転手に頭を下げて「乗せてくれ」と頼み込んだ。悔しかった。 それでも、ほとんどのタクシー運転手は親切だった。あれこれ悩みながらもトランクに車椅子を乗せてくれた。どの車も折りたためない車椅子をのせてトランク全開で町を走った。 車椅子対応というタクシーもあるが、数は少ない。いまだ乗ったことはない。 公共の交通機関はというと、一部を除いて残念ながらまだまだ使えそうもない。移動にはもっぱらタクシーを使った。滞在中20回を越えている。タクシー代にいったい幾ら使ったのか検討もつかない。乗るたび財布から5千円札が飛ぶようになくなっていったけど、なんだかマヒしてしまったから考えないようにしている。 飛行機は問題ない。まるでVIP対応だ。航空会社も空港ビルも、ほんとうに親切だった。出来るかぎり最大の配慮をしてくれた。機内ではスチュワーデスさんはもちろん恐縮してしまうくらい気を使ってくれた。ほんとに飛行機は快適だ。 町は思ったよりは自然に歩くことができた。もっと不便かなと思ったが、社会のバリアフリー化は進んでいる。不便なところもあるが、通行人がごく自然に手を貸してくれた。世知辛い世の中といわれるが、やはり人はいいもんだ。さりげない優しさが身に染みる。 人の視線は思った以上に気にならなかった。できれば見て見ぬふりをしてもらいたかったが、誰も僕を気にしなかったし、実際、車椅子なんて珍しくもないからそうなんだろう。おかげで気を使うことなく自然に町を歩けた。四国高知というおだやかな地方都市だったからなのかもしれない。 しかし段差はやはり怖い。車輪が食い込んだり転倒しそうになったり。またせっかくのスロープも急勾配すぎて自力で登ろうとすると前輪が浮き上がってひっくり返りそうになることがある。そういうところは介助がなければ使えない。至るところに見られるスロープだが、自力で登れるスロープはあまり多くはない。これは実際に車椅子に乗らなければわからないことだと思う。 歩道に車輪を乗り上げて駐車していることがある。これにはお手上げだ。これを避けるために車椅子で車道に下りるのは非常に危険なことだ。まず歩道と車道の間には段差があるから、車道に降りられるところを探さなければならない。おまけに駐車車両をやりすごして歩道に戻るまでの間は車道を車椅子で走らなければならない。これではどうにもならない。だから、いちばん凶悪に見えたのが路上駐車というわけだ。本人は駐禁違反逃れか、車の通行に対する配慮のつもりで悪気なんかないだろう。でも歩行者の存在を完全に無視している。自転車旅のときもこういう車に何度も通行を妨害された。そのたびに停車を余儀なくされたし、プチ危険な目にもあった。今回、これに車椅子で出合ったときは、それ以上に戦慄したし戸惑った。こういうときは誰も助けてはくれなかった。社会は車中心に出来ている。 葬祭などの行事はなんとかこなすことができた。喪主と葬儀委員長を兼ねていたので、どうしても動きは激しかったが、まあ、何とかどうにかなったというところ。特に病院や祖母が晩年を暮らした高齢者マンションでは快適といえた。これらの施設はさすがにバリアフリーの本場だと思った。 高知市内の武家屋敷跡にある祖母の家は古い町屋造りで、敷地も家もタテに細長い。まず門扉から玄関までのアプローチが恐怖だ。荒れた日本庭園のなかを歩くことざっと20m。池を渡る小さな橋まである。車椅子ではどうにもならず、やむを得ず松葉杖で歩いた。雨のなかでも傘はさせない。苔むした石畳みに何度か杖先が滑った。怖い。屋敷の中も大変だ。まず玄関が40センチくらいの高さ。なかなか、あがれない。家のなかは畳なので、畳のうえを這って移動した。たちまちズボンが真っ黒になり畳表のカスがこびりついた。寝所のある2階へは階段をつかわなければならない。急で狭くて暗い。恐怖だ。寝るために避けては通れない怪談、いや階段の恐怖。ここはやむを得ず途中から合流した実姉に介助してもらった。 いちばん辛かったのは羽田空港内だった。どこでも他人の目が気になることはほとんどなかったが、羽田では別だ。たくさんの人人人・・・。そして容赦なく注がれる 好奇の目線。たくさんの老若男女が僕の全身を舐めるように見回した。なにしろ数が多いから10人が視線を注げば11人目も安心して遠慮なく無礼な視線を投げかけてくる。これは集団の心理というやつだろう。悪意はないかもしれない。一切を無視したけれど、気持ちのいいものではない。 キーワードは「羽田」だった。ようやく帰ってきた旭川空港は羽田行きの飛行機を待つ人で混雑していた。介助されてターミナルに入ってきた僕にターミナルの数百人の視線が一斉に突き刺さった。 なにしろ大勢だから誰も遠慮なんてしない。興味津々の顔、あざ笑う顔、まあ、ほとんど全てといっていい目線がそういう好奇にあふれたものだった。絶好の退屈しのぎの対象だったんだろうけど、これには辟易とした。 都会の人がみな無礼だとは思わない。でも、やっぱり絶対的に人が多すぎるんだろう。地方都市では滅多に感じなかった違和感 と視線のすさみを感じる。都会に住むハンデをもつ人たちの言いようのない逃れようのない苦労が察せられた。やはり都会は氷のような街なのかもしれない。視線から逃れ、タクシーに乗り、病院に着いたときは心底ホッとした。 僕は田舎者だから、やっぱり傷つきやすいらしい。 でも確かなことがある。僕が健康を取り戻したとき、町で車椅子の人を見かけたときに自分は何をすべきか。大抵は何もしなくていいだろう。でも少なくとも遠慮のない視線で陵辱することだけは間違っている。 2005年2月21日(月) 南国土佐は寒かった さすらい患者旅情編 高知から帰ってきた。正直、飛行機が雪煙をあげて滑走路におりたったときはホッとした。やっと帰れる。 帰れるといっても病院に逆戻りだ。タクシーは自宅とは逆の方向を目指す。病室は出てきたときのままだった。あたたかな部屋がうれしかった。ここ数日の極端な緊張と不安から開放されたと思った。これで治療に専念できる。部屋でゆっくり出来るのはほとんど1週間ぶりのこと。 不自由な体とダメージに一瞬の油断もできない緊張した状況での数日間はただでさえ過酷だったけれど、それにしても閉口したのは寒さだった。北海道に慣れた僕には寒さは身にこたえる。古い町屋造りの祖母の家は窓枠もサッシではなく木で部屋の間仕切りは襖と障子。風の通りがよく、夏は涼しいが冬は外気とほとんど変わらない。いくら高知とはいっても、冬のこの時期、夜には1〜2度にまで下がる。家のなかも10度もない。夜間はもっと寒いだろう。家の中なのに吐く息が白くなる。夜は寒くて、ふとんを重ねて潜りこんだ。 こんな家に祖母は何十年も暮らしてきたのだ。これが普通だと思って。こんなことで祖母を尊敬してしまう。プチ尊敬だ。すごいぜ婆ちゃん。婆ちゃんは鉄人だったねぇ! 2005年2月17日(木) 入院生活 実は僕はいま、入院している。ツアープログラムはガイドの山小屋が誇るイケメンガイドたちが変わりなく運営していて、なんと僕のツアー以上に繁盛しているらしい。いま社長を代行している専務(僕の奥さん)が「ああ忙しい忙しい」と溢しているところからも好評ぶりが察せられる。もしかしてオレは必要ないのか?僕としては複雑ながらも、これがうれしくないはずはない。 安心していることもあって、入院生活に専念できる。病院生活は決して悪くない。行動は自由だし外出も外泊も自由。環境よく窓からの眺めは最高にいい。スポーツジムなどの施設も好きなだけ使い放題だ。しかも3度の飯は上げ膳据え膳。健康なので食事制限がないからボリュームも充分、ただ味はちょっと・・・なんだけど。 ま、こうなればジタバタしても仕方ないのでしばらくノンビリしていようと思う。大好きな読書を楽しみながら、山の写真を眺めてみたりする。 「綺麗だな。」 入院生活は楽しいと強がってみても、やっぱり寂しい。 ポジティブ・シンキングで行こう! 2005年2月15日(火) 十勝岳 不気味な活火山 ガイドの山小屋のツアーには幾通りかのコースバリエーションがあって、なかでも十勝岳は根強い人気がある。吹上温泉から山上を目指すのだけど、単純なルートどりながら何しろ広いので、いろんな斜面を選んで滑ることができて僕も大好きなコースだ。 十勝岳の盛大な噴煙を背景に広大な溶岩スロープを滑るこのコース、しかし、この山は言わずと知れた活火山で、年によって山麓のところどころにその活動の微妙な変化を感じることがある。 僕のスキーの先端は沢の流れ。ふつう厳冬期には現れない 吹上温泉から登りはじめて30分ほどで小さな沢をこえる。夏ならば飛び石づたいに越えられる小さな谷川で、冬にはほとんど雪に埋もれてしまうからこの沢を越えることに特に気を使うということはまずない。しかし・・・ 今年はどうしたのだろう?この冬は雪は多く、谷が埋まり切らないということは決してないはずだ。しかし、この沢といったらあらかた奔流が現れていて遠くからでも爽やかな渓流の流れる音が聞かれる。そして越えられる場所といったら、わずか数拾センチという狭さだ。しかも、この狭いスノーブリッジでさえ陥没が見られ、危なっかしいったらありゃあしない。すわ火山活動の活発化か(水温が高い)と疑りの目を向けたくなる。 十勝岳、いつ噴火してもおかしくはないかもな。そんな気がしている。 2005年2月13日(日) 行かないでくれ、肉! 「トレーニング・ジム」。なんという都会的な響きだろう!正直なところ僕には縁のない世界だと思っていた。それに少しだけ憧れてもいた。でもそこに通うためには僕の住む町からでは片道で1時間もかかってしまう。往復2時間。これではさすがに無理というものだ。 それなのに、わけあって最近トレーニングジムにお世話になることになった。旭川郊外、高台にあるコンクリート建物の最上階。窓からは大雪山と十勝連峰、それから忠別川の流れ、そして緑の豊富な旭川の市街が見渡せる。雪に覆われた旭川の町はまるで北米の歴史のある中核都市の郊外を眺めているようで品がある。郊外特有の広い敷地を有する住宅がつづく。道にはシラカバ並木。住宅街にはところどころに緑地がある。そして振り返れば大雪山とその裾野に広がる大雪原。なんだかカッコイイ。 夕方になると忠別川にかかるツインハープ橋がライトアップされて存在感のある立体構造物を冬の夜空に浮かび上がらせる。市街地は徐々に色とりどりの夜景に包まれていく。雪が、舞っている。カッコイイ・・・。 ここで1日1時間半から2時間みっちり汗をかく。自分できめた器械のローテーションを3回も行えば、もうクタクタになる。はじめのうちなど目の前が真っ白になって必死に吐き気を堪えたものだが3週間が過ぎた今では心地よい疲労感に感じられる。各器械を30回〜50回、このローテーションを5〜7回繰り返す。ローテーションのあとはさらに45分間担当のトレーナーがついて足の関節や筋肉の各部位について別個の筋トレを行ってくれる。こうしていると今まで充分に鍛えていると思っていた自分の筋力のどこが過剰でどこが不足なのかがよくわかる。自信のあった足の筋力も部位によっては軟弱な箇所があることがわかる。都会的科学的なトレーニングというやつは、なかなかスゴイ。目からウロコが落ちたようだ。 これがバックカントリースキーや冬山にどれくらい役立つのか、それはわからない。全然、検討もつかない。でも、何となくいいような気もする。おかげで体調はすごくいい。毎日山に入っているときよりも今のほうがまんべんなく全身の筋肉を使っているだろう、それだけははっきりしている。体を動かすというのは気持ちのいいものだ。それに、やっぱり痩せるらしい。僕の手ごわいオナカが、なんと窪んできたではないか。日本縦断自転車旅行でも減らなかったオナカの肉が去っていく。長い付き合いの、僕の相棒・・・。行かないでくれ、肉!とは、もちろん言わない。 ジムでの自主トレをはじめて2週間をこえたあたりから上半身を中心に変化が現れた。ここにきてジム三昧がなんだか面白くなってきた。コンクリートの室内で器械をグリグリ回す行為そのものは面白くもなんともないけれど、それにもだいぶ慣れてきた。 それでもやっぱり自然のなかで体をいっぱいに動かすほうがいいんだけどネ。 2005年2月11日(金) 台湾にいきたい ご存知のように近年は北海道を訪れる外国人が増えてきた。特にアジアから、そのなかでも台湾からの旅人が目だって増えている。彼らは純朴で、素直に大自然に感動し、美瑛丘陵の風景に心を奪われ、雪景色にロマンティズムを膨らませる。大きなリュックサックを背負い、言葉の通じない異国の大地を楽しそうに数日かけて旅をする。国内線の飛行機を使い、鉄道に乗り、バスに乗り、自転車を借りる。そして、よく笑う。僕もつられて笑顔になる。 彼ら台湾人は昔の僕らに似ている。学生のころ僕も大きな荷物を背負い、あるいはオートバイや自転車にくくりつけて北を目指した。北海道は美しい異国のような気がした。思えば玄奘三蔵が夢の国・麗しの国ガンダーラ(インド)を目指したのと同じような気分だったのかもしれない。(ちょっと大袈裟だけど) 日本人の旅人はここ10年でずいぶんと大人になった。ネガティブな言い方をすれば“ずる賢く”なった。おかげで僕も仕事を継続するにあたってあれこれ“武装”しなければならない。「ガイドの山小屋」を始めようと理想に燃えていたころには考えられないようなことだ。下手に優しくすれば付け入られて手痛い思いをすることがある。世知辛い世の中になってしまった。 でも、台湾からやってくるキラキラ輝く目をもった彼らを見ていると、そんなことは忘れてしまう。彼らを見ていると、僕は他人のような気がしない。夢を胸いっぱいに抱えていた昔の自分たちのような気がする。好奇心いっぱいに膨らませて彼らは旅をする。だからつい、背中を押したくなる。 昨年からそんな彼らの国を見てみたいと思うようになった。台湾人観光客の増加で恩恵を受けている観光業者たちは多いだろう。でも、彼らのほとんどは、台湾がどんな国なのか、どんな歴史なのか、知らないし知ろうとも思っていないのではないだろうか。それが残念でならない。 昨年の晩秋、僕は自転車で日本列島を縦断した。最南端の佐多岬に立ったとき、その先には東シナ海が広がり、ブルーの水平線の波間に屋久島や種子島の島影が浮かんでいた。この先に、沖縄があり、あの台湾がある。これまでも沖縄や八重山には何度も足を運んだ。石垣島の中心部にある公設市場では日本円に混じって台湾元の値段表示があった。ここは国境の町なんだ。台湾からの水夫や住民が生活用品を買い物にやってくることは珍しいことではないのだろう。しかし、わかっていても、石垣島から先へ、そのまま国際航路に乗り続けて台湾へ行こうとは思わなかった。もちろん、興味はあったけど。 佐多岬の先端に立ったとき、僕は思った。北から南へ、2千数百キロを走ってきたものの気力体力ともまだまだ有り余っていた。 次はさらに南へ、台湾へ行こう。もちろん自転車(MTB)で。 僕のプランはこうだ。まず沖縄本島で500キロのロードトレーニング(早い話、本島の1周旅)をして体を慣れさせて体力を養い、そして国際航路で石垣経由、台湾に入国しよう。そして国を1周あるいは周遊しよう。都市だけでなく地方の町や村を通り、市場で買い物をしよう。南国系の顔立ちの僕は日焼けしたらきっとタイワニーズと見分けがつかなくなるはずだ。溶け込めるだろう。 いっぽう台湾は途上国ではない。外貨準備高世界5位以内に入る経済先進国だ。決して物価も安くはないだろう。実際に日本にやってくる旅人も決してケチではないことからも精神的経済的な豊かさをうかがえる。反面、日本人は財布の中身が大変みたいだ。いま個人レベルの経済力は完全に逆転している。僕の薄っぺらなお財布にとってはちょっとした覚悟が必要かもしれない。 彼らの住む国を見てみたい。人、経済、生活。ナマの彼らの暮らしを垣間見ることで、僕は少しだけ台湾を知り彼らの世界観を感じられるかもしれない。そんな気がしている。 2005年2月1日(火) 低気圧が去って 週末に荒れ狂った低気圧が去り、今朝は朝からよく晴れている。この週末の荒天は「爆弾低気圧」には一歩至らないものの、凄ましい降雪量をもたらした。まあ雨でいうところの「土砂降り」というやつだろう。これが雨だったら土石流災害などが起こりうる、それが雪だったということだ。 今朝は明け方からよく晴れている。冬の嵐が去った直後ほど美しく眩い朝はないと思う。それはホッとしたからという心理的なもの大だろうが、それにしても美しい。雪はますます白く、それが日差しをうけて銀色に輝くばかりだ。この雪も日がたつにつれて、大気にふれて少しづつ色あせていく。降ったばかりの雪はまだ雪の結晶が崩れていないから光の屈折が絶妙なのだ。やがて雪の結晶は日の光をうけて見る見る崩れていく。また、大気中の微小な塵などを吸収して退色する。だから今がいちばん美しいときにちがいない。 空には雲ひとつない。風もない。眩いばかりの白銀の世界。きらめく樹氷。なんでこんな素晴らしい朝にお客さんがいないんだろうか、と残念になってしまうが、こんな日が休日というのもまたご褒美なのかもしれないと思う。
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