ガイド日誌 11月

日本列島縦断

チャリ(MTB)の旅

 

 

2004年10月27日〜12月7日

北海道−九州 約40日間

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〈DATA〉

MTB :GIANTマウンテンバイク ATX760 1992年製 21段変速 重量16kg

携行品:簡易テント(ツェルト ) シュラフ関連 ごく簡単な自炊具 着替え等 の個人装備 ファーストエイド 全国地図 コンパス筆記具一式 レインギア一式 テルモス ラジオ ヘッドランプ…など縦走登山と同じ基本装備をベース 他に交換部品とメンテナンス用品 防水デジカメ 眼の防護ゴーグル等

パッキング方法:主に大型ザック50〜60L  大型ウェストバック10L(フロントバッグとして) 秀岳荘オリジナル・カヌー用防水バック(サドルバッグとして) テント・マット類はフロントキャリア直付  サイドバックは使用せず

 

雪ふる北海道を出発

10月27日、降り続いた晩秋の雪がようやく止んだ。

積雪のため峠越えはできない。仕方なく列車で移動しJR札幌駅が事実上の出発地になった。札幌市内の道の脇にまだ雪が残っていた。

札幌から苫小牧、白老、長万部、函館と連日南下を続ける。寒さと疲労で、少し弱気になった。

北海道南部の川には鮭の遡上が見られる

北海道は宿が安い。 民宿2000〜3000円、3500円も出せば旅館に泊まることができる。晩秋の北海道は夜の訪れが早く3時には暗くなるのでそれまでに通りがかった町で安宿を探した。鉄道があれば駅前には大抵、観光協会や案内所があり、宿を紹介してもらうことができた。 これならば飛び込みと違って「ハズレ」がなかった。伊達市ではわざわざ市役所の職員が予約の電話までしてくれた。親切に頭が下がる。

北海道の道は日本一走りやすい 虻田町

一度、手痛い失敗をした。旅の途中、飲み物は常に1リットル以上、食べ物も何か持っているものだが、この日の僕は油断をしていた。いつもならお湯をテルモス1本に満タンもって出発するの に、この日に限って「まあいいや」と思い準備しなかった。 余分な水も持たなかった。自転車のフレームに取り付けたボトルキーパーには半分残ったスポーツ飲料があるだけ。国内を旅する限り、よほどのことがない限り食べ物の困るということはない。10キロごとに町がありコンビニがある。清涼飲料の自動販売機もある。大げさに考えなくてもいい 。

「北海道は広いから」といわれるが、国道を走っている限り、まず飲食に困るということはない。限りなく広がる大地を想像してやってくる旅人には悪いと思うが、この地にも隅々まで流通が行き渡り、知床半島にだってセブンイレブンがあって「ぴあ」が手に入るのだ。だから砂漠を横断するような大袈裟な準備など必要はない。僕は油断をしていた。

長万部の手前に大きな峠があった。これまでの僕の旅は多くの場合オートバイだったので登り坂の認識は極めて薄い。オートバイの旅行者というのは格好といい言う事といい何かと大袈裟 でアウトローを気取る方も多いものだが、実は気軽なもので免許さえあれば誰だって乗れる。坂道もアクセルのひとひねり。だから峠の有無を覚えていないことも無理はなかった。地図上の情報で峠越えを知ってはいたが、 覚えていないからあまり意識していなかった。まあ1時間もすれば越えてしまうだろう。その程度に考えていた。

峠に差し掛かったのは11時くらいだったと思う。ロールパン2、3個で朝食が十分ではなく前日の夕食も軽かったから、そろそろ腹が減ってきたが、メシは峠を越えたら適当に店を探そう、その程度に考えていた。 すでにペットボトルには一口のスポーツ飲料が残るだけだったが、自動販売機をアテにして危機感は持っていなかった。飲み物も食べ物ももっていなかった。この日は異常な暑さに見舞われて気温があがり、僕は途中で半袖になっていた。数日前の雪が嘘のようだった。

峠は行けども行けども続く。登り切った、と思ったら、少しだけ下ってまた登りが始まった。残りのペットボトルはすぐに空になった。汗がダラダラ流れて、顔には塩が吹いて粉っぽくなった。

やがて正午。気温は上がり続け、峠は続いていた。店はおろか自動販売機もなく、喉の乾きが苦痛になってきた。

午後1時を過ぎても峠は続き、標高計の数値はどんどん上がっていく。気温も上がる。喉の渇きとともに空腹が耐えがたい。ハンガーノック(カロリー切れでダウン)が起りはじめていた。自転車を 押して歩く。車が何台も通り過ぎていく。情けな くて顔を伏せた。

道路に落ちているゴミにはペットボトルや空き缶が多い。中身が残っているものもあり眼が釘付けになる。また峠なので、ところどころで小さな沢があった。沢の水音に激しい迷いを覚え る。北海道南部もエキノコックス症(肝炎を起こす致死性の高い寄生虫病)の汚染区域だから沢水は危険。しかし、そんなことはどうでもいい。ともかく水が欲しい。トンネル脇の側溝を流れる水や数十m下に見えている沢水を何度 も飲もうとした。あと1時間続いていたら、きっと飲んだと思う。 歩く気力を失って自転車に突っ伏していたら、向こうからきたトラックが短くクラクションを鳴らしていった。「ガンバレ!」と聞こえた。

道路脇の空き地に自転車を立てかけて、道路の下に見えているきれいな渓流に降りようと思案しているとき、ふと、 ハンドルバックのなかにブドウ糖塊を入れていることを思い出した。登山の仕事のときにいつも携帯している非常食で実際には滅多に口にしないため、存在を忘れていたのだ。 バッグに手を突っ込んで探してみると、グシャグシャになった袋が見つかった。すぐに硬い塊を口に放り込み夢中で噛み砕いた。硬くて歯が割れそうだったが、 甘味が喉を下っていくたびにみるみる思考力を取り戻していくのを感じる。相変わらず喉の渇きは辛かったが、ブドウ糖のおかげで体の底から力が沸いてきた。何個も口に放り込 んではガリガリする。10分後には再びMTBにまたがり、ペダルを踏み始めることができた。復活だ。

峠を越えると視界が広がった。海に沿って真っ直ぐ な道があり左手に太平洋が広がった。 美しい風景だが疲れていては感慨も感じない。ブレーキなしで全速力で下る。眼下に広がる砂丘の奥に小さく長万部の町が見える。最初に見かけたガソリンスタンドに飛び込み 、なんで自転車がガソリンスタンドなんだと怪訝そうに見る店員のお姉さんに「自動販売機!」と告げて、夢中でコインを放り込んだ。まずミネラルウォーターを買い、一気に飲み下した。体が水分を吸収し、生気がみなぎっていくのがわかる。次にスポーツ飲料を買い、こんどは楽しみながら飲んだ。 自転車ごと砂浜に乗り入れて大の字に寝転んだ。こうしていつもの自分自身の体を取り戻した。時間にすれば短かい時間だったが、僕にとっては辛い数時間だった。自分 が意外ともろいと悟り自信を失いそうだった。

この日以降、僕は満タンの水筒と幾らかの食べ物を持つことを忘れない。その後の旅では最後まで 辛い目に遭うことはなかったが、(どこに行ってもコンビニだらけ)こういう心がけにはいつかきっと救われるんじゃないかと思う。

この日はすっかりヤラレたので長万部の駅前で見つけた旅館に泊まる。1泊3500円で、 築50年は経過していると思われる木造。まるで下宿のような作りが懐かしい。小柄で誠実そうなお母さんが一人で切り盛りしていて、飛び込みで訪れた僕にもあれこれと世話をやいてくれた。まるで友達の家に遊びにきたような気分 でありがたかった。1泊たった3500円、 とてもじゃないが、儲かっているようには思えない。いろいろやりくりが大変なのは想像に難くない。それでもニコニコ優しく世話をやいてくれる。もう少しお金を置いていきたいと思った。もし、僕がもっとお金持ちならば、こんな誠実な人に 投資したい。小規模ホテルの経営を任せたらきっと成功する、そう思わずにいられない。でも実際には誠実な人ほど浮かばれない。そんな世の中を恨めしく思う。

旅の途中、いろんな人の親切に助けられた。 東北のある町ではいちばん安い部屋を取っていたにも関らずこっそりバストイレ付の部屋に通してくれたフロント係の女の子がいた。九州では柿をむきながらコーヒーをご馳走してくれたお母さん 。1膳飯屋で店のルールがわからず右往左往していると 隣の男性が座布団を持って来てくれた。続いて違うおじさんが黙ってどこからかメニューをもってきてくれた。飯は感動的にうまかった。いろんな町で名も知らない多くの人から受けた親切は確実に後々まで旅の原動力になった。 もう声は届かないかもしれないけれど、ほんとうにありがとう。


津軽海峡−青森 きれいな女性が多い町

11月1日、津軽海峡を越えた。 どんよりと重たい曇に覆われた海峡を、乗客数人が乗っていないフェリーが航行する。

青森は雨。これから3日間は雨で行動停止。博物館めぐりなどしてみるが、外出=雨降りで不快このうえない。結局、読書ばかり して過ごし、朝から晩まで食ってばかりいた。

雨天3日目、予報では午後から雨があがるという。とうとう痺れを切らして雨のなか出発した。今朝も津軽海峡は灰色だ。ついに晴れた海峡を見ることができなかった。津軽海峡はいつだって冬景色ということなのか。

それにしても青森には美しい女性が多いと感じた。宿を探して道を聞いた女性は30歳くらいのOLさんだろうか。合羽を着たズブ濡れの僕にちょっと引いていたが、丁寧に道を教えてくれた。後姿ではわからなかったが、 正面から見ると薄化粧で楚々とした、上品で美しい女性だった。軽い津軽鈍りが美しさにいっそうの華を添えていた。いつもより丁寧に礼を言い、ペダルを踏んで走り出したが、振り返りたい気持ちを抑えるのが大変だった。

市内のスーパーで食料品の買い物をするときも、青森の女性が美しいことに目映りしてしまい買い物どころではない。東北とは、かくも美人の多き国なのかとその後を期待したのだが、秋田も山形も 、普通だった。青森はきれいな女性が多い。

 

 

津軽平野はリンゴ畑が多い 1袋100円 今夜の晩飯になった

秋田と青森の県境、矢立峠。大きな峠だ。ふもとの碇ヶ関村に宿をとった。ちょっと贅沢をして1泊4500円の温泉旅館に部屋を取ったら、これが期待以上の素晴らしい宿だった。中規模の 古い旅館でセンスのいいリフォームがされており部屋も風呂も老舗の風格が漂っている。

中庭には見事な紅葉がライトアップされている。

廊下には行灯の明かりが灯されている。

家並みを見下ろすように高台にある風呂には岩風呂から桶風呂まであつらえられており、まるで豪遊しているような気分だった。食事は持参もので済ませたが、もし食事をも頼んでいたらきっとすばらしい 御膳が供されたに違いない。ぜひまた訪れたい宿。

おかげで翌朝はいい気分で峠越えをすることができた。宿代は「生き金」だ。


秋田−山形 美しい日本海の海岸線

東北地方の国道は狭い。

北海道の国道には多くの場合、十分な広さの路側帯があったが、東北に入って状況は大きく変わった。旧街道を思わせる 趣のある曲がりくねった山道が多くなった。

鳥海山と広大な田園風景 東北は広く豊かな土地だ

青森と秋田の県境は鬱蒼とした巨木の森だった。世界遺産・白神山地と十和田湖の中間に位置する矢立峠。国道の両脇に林立する見上げるような杉の大木。苔に覆われた幹。北海道では見られない光景だ。峠を下ると立派な瓦で葺かれた土蔵(これまで屋根といえばトタン屋根だった)や竹林を見かけた。農家の庭先の柿の木にはいくつもの実がぶらさがっている。ああ、ニッポンの風景だ。ふだん 、どこか欧米的な風景の北海道に暮らす僕にとって、まるで久しぶりに故郷の土を踏んだような感覚、とでもいうだろうか、懐かしさを覚えた。

能代市を過ぎたあたりから右手には日本海が広がった。これからしばらく、僕は日本海に沿って日本列島を南下し続けることになる。100年前までこの沖合いには函館と兵庫を結ぶ北前船が往来していた。日本列島を縦断する古い主要道がすぐ沖合いにある。僕もまた北前船とほぼ同じ速度で日本海の港町を巡ることになる。なんだか高田屋嘉平衛になった気分だ。

海岸線は風が強い。秋田市付近では1日中、強い向かい風に悩まされた。向かい風は自転車旅では大敵だ。登り坂にはそのあとに必ず楽しい下り坂がある。僕の大好きな山スキーなどスキーで下るというそれだけの理由で苦しい登りをするのだ。登はん具を外して斜面に躍り出すあの瞬間が僕らにはたまらない。でも、向かい風は全然報われない。虚しく苦しいだけだ。

海岸線は美しい。砂浜、それからハマナスなどの緑に覆われた丘陵、そして防風林の松林。反対側には広大な田園が広がる。古代から東北地方は広く実り豊かな土地だったというが、それを素直に納得させる光景がどこまでも続く。

出発して最初の1週間ほど、特にまだ北海道を走っているときは体が馴染まず、また上手な自己ペースが掴めずにいた。苦しくてバテ気味になることもあった。しかし、東北地方を走るころになるといつの間に体がどんどん慣れてきた。鳥海山を見るころには調子よくグングンとペダルを踏めるようになっていた。こうなってくると旅は最高に楽しい。


広いぞ新潟 下越・中越・上越、越後はひろい

新潟県を縦断するのに3泊4日を要した。これは北海道を除いて群を抜いている。古くは上杉謙信が治めた越後の国は広大な田園に浮かぶ豊かな国だった。僕と相棒のMTBはずっと海岸沿いの道 の南下を続けた。ここは旧北国街道で、謙信もきっとこの道を通ったに違いない。場所によっては海岸に右のような旧街道の跡が見られた。 磯を削って作られた1車線ほどの道が伸びている。いまでは波に削られて半ば崩れており通行することはできないが、海が荒れたらきっと想像を絶する難路になることもあっただろう。笹川流れや親不知など、有名な難所も多い。

海岸沿いの道は景観に優れ、また山を越える峠も少ないだろうと考えていたのだが、それは僕の甘い予想にすぎなかった。日本海に突き出した岩場が連続し、それらを迂回するために道は幾度となく大小の山を越えた。平坦な道などほとんどない。平坦といえば 数キロごとに点在する集落の周辺だけと決まっていた。あとは登り坂、狭いトンネル、下り坂、この連続だ。これは体力的に非常にこたえる。確かに景観はいいのだが、いささか辟易としてきた。

新潟市が近づくと道路のうち自動車の通る箇所は眼を見張るほど整備されていた。しかし自転車や歩行者はその恩恵のかけらも受けられない。その立体国道 は自動車専用で歩行者・自転車は入れないのだ。仕方なく細くて歩道のない3ケタ国道を怖々と走ることになった。右側に広がる海はいつの間にか工業地帯に変わり、有名な新潟港が始まった。それにしても新潟港はでかい。どこまでいっても港湾施設が続く。また出会うのはロシア人かアラブ系やインド系の顔立ちの外国人たちばかりだ。新潟は幕末に開かれた横浜・神戸と並ぶ古い国際的な港町だ。国際都市であることをあらためて実感した。

相変わらず港湾施設が続いている。新潟空港に近い一角に差し掛かったとき、ちょうど正午になった。このあたりの飲食店は外国人が経営しているのか、ロシアっぽかったりインド・パキスタンっぽい店が目立つ。おまけに店の前には 一見怖そうな外国人がたむろしていて、ちょっと入りにくい雰囲気がある。それでも、パキスタン風カリーをぜひ食べてみたいと思った。香りたつ香辛料のカリーを想像したらよけいに腹が減る。しかし、だ。「これ!」と思う店はなかなか 見つからない。その主な原因は店の前に群れている怖そうな人たちだ。そうこうしているときに目の前の信号が赤に変わりそうになった。急いでスピードをあげて 三叉路を駆けぬけた。そのとき、いい感じのカフェ風の店が眼に飛び込んできた。「あっ!」と思った瞬間だった。やっぱり外国人がたむろしていたが「治安が悪そう」という雰囲気があまり感じられない。しかし、だ。そういうときに限って自転車のスピードがノッているのだ。ああああああ〜、と迷っているうちに通りすぎてしまった。スピードがノッているときというのは立ち止まったり、 引き返すことにはちょっとした勇気と思い切りが必要だ。まあいい、他にもあるだろう、そう言い聞かせつつも、 気になって仕方がない。そうこうしているうちにどんどん離れていく。いつまでも後ろ髪が引かれる。ああ、愛しいパキスタン風カリーよ、お前に会うために今 すぐにでも引き返そうか。しかし思うばかりで例のパキスタンカリー店は実際にはどんどん離れていく。おまけに、行けども行けどもその先にはとうとう「アジアンチック」な店は見当たらなかった。結局、コンビニ弁当を食うはめになってしまったのだ。大変な後悔。また新潟に行く機会があったなら、今度はぜひ行きたい店。名前はわからないが、忘れないように地図に詳しい書き込みをいれた。夢はパキスタンカリーだ。待ってろよ、新潟。

最初のうち僕は新潟市から長岡市へと入り、戊辰戦争の激戦地(北越戦争)である長岡市周辺の信濃川沿いに点在する戦跡を訪ねたいと思っていた。長岡藩の家老「河井継之助」は幕末が生んだ偉人のひとりで、僕には かねてからその痕跡を確かめたいという強い希望があったのだが、なかなか縁がなく果たせずにいた。しかし出発の前、新潟県中越地震が発生。旅の出発そのものを見合わせるか、また新潟県をどう通行するのかと悩んだ。結局、新潟で旅を終えて12月上旬までの休暇を災害復興に役立てるのもいいと考え、第一の目標を新潟と定めて出発したのだ。

新潟県に入ってすぐボランティア受け入れの総合窓口である「ボランティアセンター」に電話をかけたのだが、求められているのは自転車ではなくバイクなどの機動力。一人よりもグループ、また自前で宿と食料を確保してほしいと求められた。ありったけの方法で長岡市の周辺で宿泊施設を探したのだが、どこも満員だった。宿泊を確保するには最低でも新潟市あるいは柏崎市まで遠く離れなければならず、また料金も1泊6000円以上と高額になった。 これでは1日の出費が交通費もあわせると1万円にもなる。10日で10万円だ。ちょっとキツすぎる。ある長岡のビジネスホテルでは、あからさまに問い合わせ電話を迷惑がられた。朝から晩まで断り続けているのだろう。仕方ないかもしれない。 もはや物資も人手も余りはじめているとニュースが報じていた。

阪神大震災以降、いざ災害という時には全国から大勢のボランティアが集結する光景はもはや珍しくなくなった。広い広い新潟県の中越地方にも、大勢すぎて困るほどのボランティアがやってきているのだ。素晴らしいことじゃないか、と思う。自分の出る幕などないことに寂しさを覚えたけれど、多すぎて困るくらいにやって来る善意の人々がいる。世知辛い世の中だけど、人間は捨てたもんじゃない。それに「阪神」とは事情が多少異なるようだという空気も感じていた。善意の押し付けは受け入れ側には大きな負担になるだろう。

こうして僕の旅は被災地を迂回して続けることになった。さすがに被災地見物などできるものではない。「阪神」のとき、いやなものをたくさん見た。そのひとつが被災地観光客。瓦礫の町に嬉々とした彼らはやってきた。僕がそうなってはいけない。被災地域近くを通る国道8号を避け海岸沿いを南下した。

海岸沿いのロードは何事もなかったように海がキラキラ輝き、白砂のビーチがあり、高台には夏の休日を過ごすためのリゾート施設や別荘が並び、入り江では漁師が網の手入れに精を出していた。僕の相棒のMTBはそろそろ 痛みが目立ちはじめ軋み音が気になった。何しろ古いのだ。どこまで持つのか?不安になりはじめていた。途中でバラバラになるかもしれないと本気で心配した。

北国街道の名残 右奥には松林があり、日本海が広がる 新潟県村上市

新潟に入って4日目、上越市で強烈な向かい風に襲われた。砂埃が巻き上がり、容赦なく顔や眼を襲う。さらに大型トラックが追い越しざまにさらなるゴミを巻き上げる。突風が吹き、自転車ごと押し戻されそうになる。…最悪だ。

「春日山城」の看板が見えた。戦国武将「上杉謙信」の本拠、ここはぜひ訪れたいところだ。しかし、寒冷前線が近づき風は猛烈な向かい風になって襲いかかってくる。そのために一切の余裕は消えた。悪天候は肉体的精神的に辛いもの。まもなく雨が降り始めた。ほんと、ついてない。


道路は土地をうつす鏡

道路は土地をうつす鏡かもしれない。残念ながら我が北海道は道路脇のゴミが他府県よりもずば抜けて多く、「民度」の低さが露見した格好だ。それに対して東北地方はゴミが少なく、昔から続く自然環境に溶け込んだ生活が土地の人々の精神面にも表われていると感じた。東北の精神文化の豊かさをあらためて感じる。

また、県境を越えると道路状況が大きく変化するところも興味深い。たとえば新潟県では自動車道がすばらしく発達しているが、それに対して交通弱者が利用する歩道は多くの場所で荒れていて段差も多く、都市中心部を除いては細かい配慮がなされておらず、対応が放置されているという印象が強い。その土地を治める「政治家」の性格が表われているということなのか。弱者への配慮 が行き届いた自治体と、弱者の声にはそっぽを向いて耳を貸さないという性格が強い自治体。弱い立場から道路をみていると、それらが一目瞭然であることが興味深い。

旅の途中で最も行き届いていると感じたのは石川県だった。とはいっても加賀百万石を象徴するように華美であったわけではないし、道路そのものが新しかったわけでもない。それでも、市街地も郊外も、石川県内を走る限り快適で安全だった。段差は少なく路側は広く、歩道も整然としていてこれならばお年寄りも安心だろう。道路脇も概ね清らかで草は刈られていてゴミも少ない。石川県の町も美しいが道路も清らかだ。この地では行政が優れていて、ここに住む人たちもまた成熟した精神文化を持っているのだということがうかがえる。道路からはその土地の事情がうかがえる。端的な例だ。

また自転車旅ではトンネルがとても怖い。歩道はあってもハンドル幅ほどしかなく狭すぎるのだ。すぐ脇をダンプカーが地響きをたてて通り過ぎていく。命の危険を最も感じるのがトンネル通行だ。だから、無理をしてでも狭い歩道に乗るのだが、サイドバックをつけていたら狭い通路の走行はかなり難しいと思う。

トンネルはたいてい郊外の峠にあることが多い。福井県敦賀市郊外を走っていたときのこと、トンネル手前でいきなり一方的に「トンネル内 自転車・歩行者 通行禁止」なる看板に遮られた。 事前の告知はなかった。唐突だ。迂回路も書かれていない。そもそも迂回路などないのだ。もし迂回するのなら何キロも戻って地図を見直さなければならないだろう。ここは一般国道、あまりに理不尽で一方的、乱暴な物言いだ。その土地で弱者切捨ての政治が行われているのは、こんな 出来事からも強烈に感じることになる。

では、このトンネルで僕はどうしたか?もちろん完全に無視して狭い歩道を走行した。どの県でも普通に見られる国道のトンネルだった。なぜ通行禁止なのか、理由はよくわからない。


北陸 金沢に見た日本の美

北陸に入るころから日本海側は冬型の天気傾向になってきた。やむを得ない。季節はもう11月中旬になろうとしている。冬のような冷たい雨が降り始め、金沢でとうとう足止めになった。願ってもないことだ。古都金沢の町を散策しよう。

ちょっと奮発して市内の老舗ホテルに部屋をとった。のんびりしょうという気もあったが消耗が激しいMTBを整備したかった。ホテルの部屋ならばMTBを分解して持ち込むことができるだろう。   兼六園の紅葉

翌朝から町を歩いて散策した。金沢には雨傘が似合うと思った。以前にも訪れたことがあるが、今回も新鮮そのものだ。古い家並みと近代的な町並みがうまく調和している。こんな町はそうはない。成熟された日本文化が漂う町だ。

以前訪れたときは金沢大学があった前田利家の金沢城は今ではキャンパスが移転して城域の全体を散策することができた。ピッカピカの真新しい櫓などには興味が沸かなかったが、建物がなく鬱蒼とした草木に囲まれた本丸跡は古城の雰囲気が満喫できる。伊達政宗の青葉城に共通したものを感じた。苔むした野積みの古い石垣が往時を偲ばせる。

兼六園で庭園を眺めながら抹茶の接待をうける。長く剣道をしていたおかげで僕の正座はなかなかキマっているはずだ。それにお手前も多少の心得がある。僕の和風好みはこんなときに如何なく発揮できるというものだ。ジャージに5本指ソックスという服装が残念ではあるが、ここは堂々とふるまおう。広く開け放たれた縁側の向こうに広がる庭は美しい。茶室の天井も見事だ。ただ、茶は少々熱すぎるように思えた。これじゃあ舌が痺れる。味などわからない。茶は目の前で点てたものではなく盆で運ばれてきたものだ。さては電気ポットの湯をジャーと入れたんだナ。やっぱり「観光用」なんだ。

町の中心部には公設市場があって山海の幸があふれている。観光客のために日本海のカニを売る店が目立つが、ほとんどは地元のための店だ。料理好きの僕はこんなとき心が踊る。さまざまな山のキノコが並んでいるのを見つけて興奮する。野菜も新鮮で手に取ると水しぶきがあがりそう。何もかも旨そうだ。しかも安い。ぶらぶらしながら果物を少し買った。金沢の豊かさを実感する。

この雨が通り過ぎるまでの間にやらなければならないことはまだある。遊んでばかりはいられない。ホテルに戻り自転車の整備に取りかかる。チェーン周辺の部品を外して古新聞の上に並べ、丁寧に掃除していく。つづいてチェーンの汚れを潤滑スプレーとブラシでコマの1個1個をたぐるように丁寧に落としていく。ずいぶん砂を噛んでいた。続いてグリースを塗って馴染ませる。これで調子よくなるだろう。根本的な部品の老朽化や欠損はどうにもならないが、丁寧に整備してやるだけで道具というものはどんどん寿命が延びていく。要するに大切なのは愛情なのだ。何でもかんでも新しいものに飛びつけばいいというものではないのだ。新しいものは確かにいいが、すぐにまた新しいものが出てきたら、そちらが良くなって心移りしてしまう。今までのモノは忘れる。でも僕は古いものを長く使いたい。 人も道具も古いのがいい。愛着や円熟味、古い寺の磨きぬかれた柱のように丁寧に手入れをされたものの持つ美しさ、年齢を重ねた人間の内面から表われる美しさというのは何物にもかえ難い。 道具というのは使い込んでこそ真価を発揮するというものだ。

外は雨。風も強いようだ。明日には出発できるだろうか。財布の中身にも隙間風が吹き込む。このホテルは早々に引き払わなければならない。

翌朝、雨はあがった。土曜の朝ということもあり町には車が少ない。リフレッシュして組み立てたMTBで走り始めた。なかなか調子がいいようだ。国道に戻るには金沢の中心部を通り抜けなければならない。町屋の家並みが続く。 一軒の商家の前に真新しい国産のミニバンが止まっていて 、家のなかから美しい着物を着飾った女性と、それから可愛い羽織の男の子が出てきた。 女性の着物はまぎれもない加賀友禅だ。雨上がりの古都の町並みにふと出現した満開の桜のようだ。ああ、なんと美しい。僕のMTBはその横を風のように通過した。あっという間のことだった。そうか、きょうは七五三なんだ。微笑ましい光景、生活に染み付いた伝統が息づく町、古都金沢は去り際までやってくれる。美しい町だ。心からそう思う。


大坂丹波路 

福井県に入ると街道における京都・大坂の存在が大きく色濃くなってきた。近畿を意識するようになるとそろそろ日本海ともお別れになる。やがて県境をこえた。舞鶴(京都府)は帰省の折に利用するフェリーの港がある。そこを自転車で走るのは、なんだか妙な気分だ。まもなく由良川に出て内陸部に入り日本海とはお別れをした。次に日本海を見るのは旅をおえてこの港から帰途につくころになる。      緑深い丹波の路

由良川沿いの道はこの夏の台風による洪水災害の傷跡がいまだ生々しい。道路脇には泥が堆積してドロドロ、またとんでもない所に濁流に流されてきたゴミが引っかかっていたりする。バスの屋根に取り残された乗客の様子が大々的に報道されたが、つまりあの現場を通っていることになる。そんな光景は、はるか内陸部にある福知山まで続いた。

福知山を過ぎると瀬戸内に出るためにはいくつかの急峻な峠を越えなければいけない。一つ目の峠を越えると明るい山村が広がった。なんと道端には無数のイノシシの足跡がみられる。鹿に似るが顕著な楕円形をしている。 このあたりの交通は少ない。こんなところでイノシシに出くわしたら恐ろしいだろう。熊も怖いが、イノシシのほうが凶暴で好戦的なだけに、 目の前にある無数の足跡は気味が悪い。言うまでもなくこの辺りの名物料理はボタン鍋(猪鍋)である。

九十九折のつづく急勾配の大きな峠を越えると、一気に近畿の色合いが増した。交通は増え、人も増えてきた。大阪へ至る道だ。ちょうど西宮市を流れる武庫川の上流に位置し、このまま川沿いに下っていけば宝塚市、西宮市を経て大阪湾へと至る。甲子園球場の近くといえば分かり易いかもしれない。

ここにきて道路状況は極端に悪化した。路側は狭くて歩道はガタガタ、信号だらけで人だらけ。秩序はメチャメチャ、まだ阪神地区のずっと郊外にもかかわらず、である。関西人気質そのまんまの道。ずいぶんと適当である。六甲山の北、三田市街地を抜けたころにはもうクタクタだった。さらに神戸市内の実家に帰りついたときには疲労困憊していた。やっぱり道路は地域を映す鏡である。関西の道は底抜けに ファンキー、ソウルフルだった。ふぅ・・・。


トラブルあれこれ そりゃあ、いろいろあります・・・

マウンテンバイクは比較的トラブルが少ないので長期・長距離のツーリングには適している。タイヤの細いクロスバイクやロードタイプの自転車は軽快でMTBならば1日 100kmほどの走行であるところが150kmにも200kmにもなる。しかし、その分だけ車体や車軸への負担が大きくてトラブルは避けて通れない。 細いタイヤは簡単にパンクしてしまうからハードな旅には向かないといえる。

山道、荒れた道、ヘビー重量なんでもござれのMTBだけど、さすがにこうなってしまってはどうにも…。(右写真)

路肩にはいろんなものが落ちている。空き缶、エロ本、携帯電話、車の部品、お金が落ちてることだってある。錆びた釘が沢山むき出している木切れも落ちてるし、割れたガラスも少なくない。気をつけてはいるものの、 写真のようにまともにネジを踏んだらしい。いくらなんでもネジが刺さってはマウンテンバイクもお手上げだ。タイヤは一気にパンクしてしまった。

パンクはいちばん多いトラブル。必ずあると思ったほうがいい。 僕は予備のチューブを持ち、パンクしたらチューブを交換して、あとでノンビリと修繕することにしている。また他のトラブルの例をあげると、やたら尻が痛かったり、 また転倒することもあるし、病気になることもある。思わぬ闖入者に乱されることもある。また、トラブルとは言えないかもしれないが、どこか知らない町で知らない誰かと恋に落ちてしまい、そのまま居ついてしまった、なんて人もいる。まぁ、ある程度のトラブルはつきもの。それを楽しむくらいのつもりで。ただ、事故だけはなんとか避けて通りたいもの。


酷道2号を下関へ  国道は酷道だった 山陽路

大阪と北九州を結ぶ日本の大動脈。自動車道路に平行した高架は東海道山陽新幹線。ほぼ5分おきに新幹線が架線から火花を散らしながら時速200kmを超える弾丸となってスッ飛んでいく。 道路では朝から深夜までトラックの地響きが途切れることはない。山陽道。旧西国街道。それが国道2号線である。

なにしろ交通の多いところでベルトコンベアに乗った荷物のように大型トラックが数珠繋ぎに連なって途切れるということがほとんどない。交通マナーも荒んでいるから僕の自転車を少しくらいは避けてもらえないかというささやかな願いは排気ガスにかき消されてしまう。そう、世間は冷たいものなのだ。

命と健康を少しでも心配するならば、この区間はマウンテンバイクを畳んで鉄道を利用するかフェリーで直接九州へ上陸すべきだと思う。交通量に対して車道と歩道の区別があいまいだし、 道路の端を走ろうにも車が私たち自転車を避けるだけの余地すらほとんどない。人口数十万の都市が連なるこのあたりは交通弱者に属するツーリストにとっては悪夢の土地だ。この区間に は自転車で2泊必要だろう。それならば、その間の食費を下関までの鉄道運賃に回してもつり銭が返ってくる。国道2号は酷である。 どうしても自走したいというロマンチストでない限り、あまり価値はないかもしれない。いっぽう瀬戸内海の対岸の四国を走れば快適だ。四国には安くてうまいさぬきうどんが待っている。

山口県下関。ようやく本州の最南端までやってきた。関門海峡が九州との間を隔てている。とても潮の流れが速く、まるで川のようだ。すぐ目と鼻の先に九州が見えている。弓矢を放てば届きそうな距離、実際ここは源平の最後の合戦が行われた通称「壇ノ浦」。近世では「下関条約」が結ばれた地でもある。教科書に載っていた出来事がいろいろと登場する場所だ。

関門海峡には橋とトンネルがあるが人や自転車はトンネルを通ることになる。僕は最初、神戸から淡路島を通り、淡路島から四国に渡って四国を横断して九州に至るルートを考えていた。酷道2号を避けた静かなルートだ。しかし、淡路島から四国へと渡る手段がどうしても見つからなかった。淡路島-四国に横たわる鳴門海峡の橋は高速道路なので不可、鉄道はない。高速バスでは分解収納した輪行自転車は手荷物規定をオーバーするということでこれまた断られた。橋が開通したためフェリーは廃止された。いま、淡路島と四国の間は車かバスでなければ往来すること ができない。自転車や原付バイクで通勤通学あるいは行商していた人たちは世間から切り離されてしまったのだろう。

関門海峡は素晴らしい。人が歩いて九州と本州を往来できる。しかもタダだ。(自転車は20円)自転車ごとエレベーターで下に降りる。扉が開くと明るいトンネルが一直線に九州へと抜けている。予想していたよりはるかに人通りが多い。なかなか賑やかな通りだ。人通りが途切れるのを見計らって写真を撮ったが、途切れるのを待つのにかなり待たされたくらいだ。トンネルには賑やかな話し声が響いている。


福岡 九州上陸

悪夢の国道2号線が終わった。 うれしくて写真を撮った。(右)本州から関門海峡をトンネルで渡り、ついに九州へ上陸したことで、この旅もいよいよ終盤に入る。ここから最南端まで1週間もかからないだろう。空は真っ青、いい天気だ。さあ行こう。

小倉(福岡県北九州市)は大きな町で道路がいろいろ入り組んでいるため道に迷ってしまった。 九州に入ったという喜びと段差が少なくて路肩が広いという自転車に優しい道路だったため、つい思い切り爆走していたら案内標識を見落としていつの間にか全然違う国道を走っていたのだ。 進むべき国道10号線に戻るために通行する人たちに道を尋ねた。みな親切に教えてくれる。福岡県内の道は段差が比較的小さいので歩道を走っても車体へのショックや体力的な負担が小さくて済む。自転車に乗って旅をしていると、道路の段差が少ない町にはつい好意的になってしまう。福岡県 は人も道路も親切だ。なかなか好きになれそう。

町を抜けて30キロも走ると国道10号線の交通量はぐっと減ってきた。2車線の地方の国道らしくなってくる。空が広くて空気もやわらかだ。九州らしいおおらかさを感じる。左手にときどき海が見える。豊後水道だろう。魚がうまい豊かな海だ。あの向こうには四国がある。さらに明日になれば左に見えるのは太平洋に変わるだろう。1ヶ月ぶりの太平洋との再会だ。北海道の長万部以来ということになる。

自転車に優しい福岡県はグングン走ってあっという間に終わり 、午後には県境を越えた。話は逸れてしまうが、大分県中津市で買い物のため大型ショッピングセンターに立ち寄ったのだが、買い物をする女性たちが随分と綺麗で驚いた。みな普通の主婦やOLだろう。ここは美人の多いところなのだろうか。青森以来の、うれしい発見である。九州の第一日目は大満足のうちに終わった。

関門海峡から見る九州小倉 ずいぶん近い


大分−宮崎 あたたかな海岸ロード

太平洋が見えてくると一気に南国らしくなってきた。晩秋を過ぎると冬型の天候になることが多く日本海側を走っていたときは一向に安定しない天気と海からの強い季節風に随分と悩まされてきた。そこで舞鶴から一気に瀬戸内側に横断したのだが、おかげで、それ以降は天候に恵まれている。冬になると瀬戸内や太平洋側は好天が続くと考えてそうしたのだが、かわりに山陽道の交通と排気ガスに悩まされる結果になった。小雨が続く山陰と大型トラックが途切れない山陽道、どっちが良かっただろう?結局苦しいのは同じかもしれない。

いくつかの峠道を越えると海が見えてきた。明るく開放的な海。別府湾である。高校生のころ、自転車で四国を横断して、さらに別府から九州に入ったことがあった。そのときはここから九州を横断してそのまま長崎へと向かった。あれから20年以上になるが、ふと昔の自分にばったり出会えるような気がして懐かしい。別府の裏にひかえる笹山(樹木がほとんどなく全山が笹などで覆われた独特の風貌をしている)の山脈を見ていると、かつて高校生チャリダーだった自分にフィードバックしていくようだ。あのときは西を目指したが、今回は南へ向かう。いまも僕の旅は続いている。

九州は快適だ。別府や大分の海沿いの道に差し掛かると、あたたかな気候を象徴するような開放的な景色が広がりいい気分だ。街路樹には椰子やソテツが植えられて精いっぱいの南国気分を演出している。わざとらしいと冷めた目で見つつも 、実は悪くないと思ってしまう。僕は結構ミーハーなのだ。

海沿いには公園が多くあり市民が思い思いの場所で昼寝をしたり読書をしたりして楽しんでいる。いまごろ北海道の街では人々はコートの襟をたてて足早に歩いているというのに。思わず「老後はぜったい大分に住むぞ!」なんて思ってしまった。最近まで「絶対北海道に移住するのだ!」とがむしゃらに張り切っていたのに、である。僕はミーハーなうえ、根が単純なのだ。

大分を過ぎると国道は深い山道にかわる。12月に入ってこのあたりは紅葉が美しい。このあたりの山にはイノシシが多いのだろう、車に轢かれたのか道路脇にビニールシートを被せられた猪が横たわっているのを見かけた。 かわいそう・・・と言いたいところだが、その姿が僕には「獲物」に見えてしまう。しかし残念だ、僕は小さなポケットナイフしか持っていない。車の旅行であれば鉈も鋸も持っているというのに。これでは旨そうな太腿を切り離して持ち帰ることができないではないか。まったく無念で仕方がない。

イノシシの肉は旨い。特に岩塩と胡椒だけで焼いた焼肉は至上の美味なのだ。でっかい太腿を焚き火のうえでクルクル回しながら炙って食うのが最高だ。四国で営林署請負の仕事をしていたとき、 僕の仕事仲間には山師が多かったおかげで僕は野生のイノシシの味を知っている。彼らは鉄砲かついで犬と一緒に山に入り2日ほどするとフラリと山から下りてくるのだが、まず間違いなく猪を担いでおりてくる。イノシシは南四国では身近な存在だった。そのイノシシが目の前に転がっているのだ。これが平静でいられようか。

そんなこんなで獲物を逃がした悔しさいっぱいで自転車を走らせていると、ふと立ち寄った道の駅に冷凍のイノシシ肉を売っているのを見かけた。見ると、それはまぎれもなく野生のイノシシだった。こま切れ肉ならば100グラム500円。切り方は乱雑だがコリコリした食感の皮下もついている。ちょっと高いと思ったが丹波篠山では1500円もすることを考えれば、それでも安いだろう。焚き火で炙った太腿の丸焼きは無理でも、せめて猪鍋を食べたいと思い、思い切って1.5キロを購入して北海道の 自宅に送った。帰ったら一緒に冬の山で仕事をする仲間たちと賑やかに猪鍋を囲もう。かつて交わった南四国の山師たちのように。もう10年も会っていないが、猪撃ちの名人ハルオさん、レミントン社のライフル銃が自慢のタケさん、イワナ釣りが上手なクニさんたち南四国の山師のみんなの顔が瞼に浮かんだ。みんな元気だろうか。

山の峠は県境だった。これから宮崎県に入る。ますます温暖になるだろう。ただ、南の海上には季節はずれの台風が暴れているという。宮崎で は嵐をやり過ごすことになるだろう。

 

 

トンネルの歩道は狭い すぐ脇を車が追い抜いていく ダンプカーの風圧は恐怖


南九州うまいもの 感動の地鶏もも焼

もう20年近く前になるが、オートバイの旅で訪れた宮崎で地鶏のもも焼を食べた。宮崎市内にあったその店は古いプレハブで中は狭く、肉を焼く煙がもうもう充満しているなかに煙で目をシバシバさせた客がぎゅうぎゅう詰めている、そんなところだったと記憶している。目の前で鶏が焼かれて巨大なハサミでずたずたに切られ大皿にのって目の前にドン、というカンジで置かれた。大学生だった僕が行くことのできる店だからきっと安かったんだと思う。そのときの味が忘れられなかった。その鶏はニワトリという感じではなく、どちらかというと、今朝うちの爺ちゃんが山で鉄砲で撃ってきた大きな野鳥をまるごと焼きましたよ、そんな感じのもので野性味が強く、僕が知るどんな鶏よりも歯ごたえがあり弾力のあるブシッと噛みちぎれば旨い肉汁が口のなかに迸る、その味はいつまでも鮮明に残っていた。

宮崎に行くことがあればまた地鶏が食べたい。僕のたっての希望だった。これを食べるためにはるばるペダルを漕いできたようなものだ。旨いビールを飲むためにプールで泳ぎサウナに入るように、僕は絶品の地鶏に出会うために ここまで2200キロ、日本列島を自転車のペダルを漕ぎ漕ぎやってきた、といってもいいだろう。この旅には実はロマンなどない。ただの思いつきと他愛のない食欲が原動力なのだ。実は。 旅を思いついたのは出発の1週間前だった。思いついたら明日にも出発という単純さだ。

宮崎県都城市。今回の店はそこにある。駅から歩いて10分ほどのところにある「つる」という地鶏専門店。「つる」だからといって「鶴」を食わせるわけではない(と思う)。ちなみに聞けば「鶴」は実は大変な美味で、いにしえから高位の方々にのみ食されていたという。店の名前と「鶴」の味は関係あるのだろうか?実は南九州にはあやしい紳士クラブのようなものがあって毎年初冬の頃、野鳥の味がもっとも美味くなるころになるとこの店の奥に隠された座敷でもってこっそり禁制の「鶴」を食べさせてくれるのかもしれない。そんな想像をしながら20年ぶりの「もも焼」が焼きあがるのを待った。昔行った宮崎市内の店のように煙が充満しているわけではなく清潔で静かな店だったから、料理が出てくるまでの間の僕はなんだか落ち着かなかった。やっぱり奥は隠れ紳士クラブに違いない、そんな勝手で他愛のない想像をしながら料理を待った。

20年ぶりの再会は衝撃だった。最初に出されたのが「とりタタキ」だったので口のなかには酢醤油のほどよい酸味と薬味の涼やかさが残っていて、食欲はいい塩梅に増していた。そこに登場したのが地鶏のもも焼だ。

肉はやや赤身が残るミディアムレアで、見るからに弾力が感じられる。味付けは塩と胡椒だけだろう。ここに掲載した僕のつたないデジカメ写真で見る以上にボリュームがある。300gくらいだろう。果たして味は・・・・。絶品だ!

20年前の味が蘇る。まさに「噛み千切る」という形容がピッタリの弾力ある肉。ほとばしる、肉汁。ほのかな甘味と、ただよう野生の味。なんとすばらしい!この素晴らしさは筆舌には尽くせない。開店して間もない静かな店内だというのに僕は感動して「うまい!うまい!」と大声で連発していた。両脇に座る物静かな紳士クラブがつられて笑っている。僕の絶叫を合図にしたかのように静かな店はにわかに賑やかになってきた。そしていつの間にか店内は、やんややんやの大繁盛になっていた。ときに夕方6時半ごろのことである。

明日は一気に最南端まで行こう。美味い地鶏料理に満足して、ゆっさゆっさと腹をさすりながら僕は決心した。旨いものを食べたら体はよく動くのだ。100キロ程度の移動は何でもない。一気に大隈半島を縦断しようではないか。


薩摩路 大隈半島のみち

前日の勢いそのままに一気に南を目指す。この旅で最後の県境をまたぎ鹿児島県に入った。鹿屋を経由して大隈半島に入る。予想以上に大小の峠があり道中のペースが上がらない。また、前日に通過していった台風崩れの大型低気圧の余韻のため晴れているものの向かい風が非常に強く、海の波は荒い。飛沫は霧状になり道路にまで降り注ぐ。ゴーグルが塩のために白く曇って何度も何度も拭かなければならなかった。

午後になると錦江湾の沿岸に至る。海上には対岸の指宿にある開聞岳が見えてきた。まるで富士山や羊蹄山のようないい形だ。コバルトブルーの海に映えて美しい。

大隈半島に入ると回りの植物の様子が明らかに違ってきた。曲がりくねったヘンな形の木や、椰子のような形のいかにも「南国〜」といった樹木が自生し、バナナが普通に道端に生えている。植えているのもあるが雑草のように生えているのもある。八重山地方の島しょの光景に似ている。

植物園ではなく普通に道端に生えている 八重山諸島に自生するのと同じ小型の「島バナナ」だと思う 

小学校の裏の土手で子供たちが尻の下に椰子の葉を敷いて土手滑りを楽しんでいた。僕はこれをダンボールでやっていた記憶がある。北海道では肥料袋だ。ナルホド、椰子の葉なのか。 南国らしく何ともほほ笑ましい。ただ、今日なにかと小学生を狙った犯罪が多発していることもあって子供たちを立ち止まって眺めたり撮影することははばかれた。 なんと世知辛い世の中になったものだ。大人ならばともかく、小学生に声をかけるのは絶対に避けなければならない。悲しいことだと思う。ハイビスカスの燃えるような赤がとても寂しく見えた。


最南端 佐多岬

夕方、佐多岬まで8キロ地点に着いた。しかし、本州最南端の「佐多岬」(鹿児島県大隈郡佐多町)は個人の所有地になっていて岬に続く道路の入り口には料金所のゲートが 「でん!」と構えている。おまけに、なんという理不尽。自転車・歩行者は通行できないという。

しかし、僕はあきらめきれなかった。料金所のゲートが開いているのは朝8時〜17時だ。岬の往復は16キロ。峠道の連続であることや標高差を考慮しても1時間半あればいいだろう。よし…。

近くの浜辺で泊まる。さざなみが気持ちいい。目の前は東シナ海、オーシャンビューだ。なんという贅沢だろう。

翌朝、僕は思いきった早起きをした。まだ夜明け前なので辺りは真っ暗で岬へと続く無人の道路はまるでジャングルの一本道のように見える。僕はヘッドランプを点けてMTBを担ぎ 、えいやっとゲートの内側に入った。そして南へ向けてペダルを踏んだ。アスファルトをかむタイヤの音、軋むチェーン、周辺の森のなかには小動物の気配がする。東の空が除々に染まり始めて道路には除々にはっきりと僕の影が映りはじめる。海からはポンポンポンという軽快なエンジン音が聞こえてくる。見ると小さな漁船が入り江から沖へと滑り出していく。登り坂、下り坂、また登り坂。僕と相棒のほかには誰もいない道。僕とMTBは一体になり南へ向かって風を切る。 老朽した僕のMTBにはこれが最後の長距離ツーリングだと決めている。これで相棒は引退する。よくここまで耐えたものだ。相棒よ、これがおまえのラストランだぞ。

6時半ごろ岬に着いた。撮影ができる明るさになるのを待つ。6時45分、朝焼けに海が染まるのを見届けてカメラのシャッターを押す。 看板の左奥には灯台が、また写真では確認できないが肉眼では沖合いに種子島と屋久島の島影が見えている。

さあ、明るくなったら急いで引き返さなければならない。料金所のゲートが開く30分前には係員の見回りもあるだろう。せわしなく、ペダルを踏んだ。 見つかったら大変だ。なんとなく青臭いことをしたなと思ったけれど、なんだかイタズラをしたあとの子供のような気分だった。空がどんどんコバルトブルーの深さを増していく。きょうはいい天気になるだろう。

※見つかったら怒られると思うので決してオススメはしない。念のため


旅の終わりは少し寂しくあっけなく

浜辺に戻って持参した食料で朝食を済ませ、少し眠った。うとうとしながら、これからのことを考えた。海風が心地いい。12月6日。出発して41日目。

日が高くなってからノロノロと出発した。今までとは逆に北上を開始する。しかし、いったん走り始めたものの目的を達成してしまったせいかペダルを踏むもなんだかダラダラしてしまう。今までは風景 を楽しむより、ともかく南へ南へと先を急いだものだ。しかし目標を失ってしまったせいだろうか、道端の花を見かけては立ち止まり、亜熱帯性の木々を珍しがり、巨大なガジュマルやあこう樹を見つけては根元に近づいて見上げてみたりした。そうこうしているうちにも鹿児島市が近づいてくる。桜島の豪快な姿が目前に迫る。それにしてもデカい。    あこう樹 大隈半島に広く自生している亜熱帯樹木

桜島の麓から対岸の鹿児島市へフェリーで渡り、鹿児島中央駅でこの旅はあっけなく終わりを迎えてしまった。相棒のMTBは分解して収納袋に梱包して北海道の自宅へと送った。MTBと別れると、なんだか裸にされたようなミジメな気分になった。自分がちっぽけな存在であることを強烈に認識させられる。

夕方の 雑踏から逃れるように神戸行の夜行バスに乗った。バスは自転車の何倍ものスピードで走り、僕が10日かけた道を12時間で走りきってしまった。昨日の朝には最南端の岬に立っていたのに、 今は街にいる。早朝の街は動きはじめている。バス移動で僕は世間のスピードに一気に引き戻された気がする。さてと。町に着いた僕は市バスターミナルへと足早に歩く。 実家に2、3泊し数日後には一人で小樽行のフェリーに乗り冬の北海道に帰る。旅は終わった。

相棒は貨物便のトラックで先に北へ帰る 鹿児島にて


自転車の旅は誰にでもできる気軽な旅 あとがきとして

あえて言うが、日本であろうと外国であろうと道路を走る限り自転車の旅は決して「冒険」の範疇には入らないと僕は思う。北海道の自宅に戻って新聞を広げたとき、MTBで凍結した間宮海峡を横断して冬のシベリアを走破しようと計画している人の話が載っていたが、これが冒険なのであって日本縦断や日本1周は決して冒険ではない。どちらかというと、自転車旅は運動不足の解消や観光、自分探しの旅というカテゴリに入るかもしれない。

白状するが、自転車で旅をするということは旅先でレンタサイクルを借りて走り回るのと大した違いはないのだ。よく、「すごい」と言われるのだが、そんなとき僕はなんだかコソバユくなってしまう。だって、全然凄くないことは自分がいちばんよくわかっている。確かに峠越えは肉体的に辛いが、毎日5キロのジョギングをするほうが遥かにタフで凄いと思う。列島縦断の2400キロは毎日が楽しくて新しい発見の連続だった。ちょっと変わった観光旅行だ。しかしお金もかかるから、空っぽの財布では出かけられない。 実際に僕はこの旅行で20万円以上をパッと使った。その半分が食費として消えた。いわば燃料代だ。

自転車旅行者は決して貧乏旅行者ではない。ほとんどの自転車旅行者は節約旅行をアピールし存在意義を高めようとする傾向があるが、ちょっとイジワルだが僕が白状してしまおう。自転車の旅は結構、贅沢だ。いちばんカネがかかると思う。彼らは 決して貧乏なのではなく、実はカネは持っているのだがケチっているに過ぎない。あ〜あ、バラしちゃった。(すまない、チャリダー諸君 。裏切ってしまった)

最も安いのは飛行機。バーゲン運賃ならば12000円で札幌から沖縄まで飛べる。アジアの国もオープンエアで2万円くらいだから、自転車旅と比べるのもはばかれる。いっぽうで自転車は移動に日数がかかるのでその間の食費がいちばん問題だ。宿に泊まるなら宿泊費もバカにならないだろう。経費は莫大だ。オートバイならば1日で軽く300キロをこなすが自転車ならば3日かかる距離、1日10ドル(1200円くらい)で計算しても3〜4千円の経費が たった300キロの移動で消える。いっぽうでオートバイのガソリン代はその半分以下だろう。スーパーカブならばさらに半分で釣り銭が出る。 分解して鉄道に乗ったりすることはできないが、節約だけを考えるのならスーパーカブは群を抜いて優れている。さらに丈夫で滅多に故障しないし、おまけに世界中で愛されているのでどこに行っても修理に困らない。まさに世界標準だ。

このように、ほんとうの貧乏旅行ならばオススメはスーパーカブであり自転車ではない。自転車と同じ経費で同じ距離を旅するならば、スーパーカブの人は毎日シティホテルに泊まってウマイものを食えるだろう。それくらい僕らの旅には経費がかかってしまう。要するに徒歩よりはマシだが コストパフォーマンスは最悪だ。ただの道楽ともいえる。

このように自転車旅は時間とカネがかかるからどうしても粗食に耐え、宿代をケチって旅をする。チャリダーは必死の節約に精を出すわけだ。結局、内実は貧乏旅行だ。一見、無意味にも思えるが、ではなぜ自転車で旅をするのか。答えはカンタンだ。まず、自分の足で旅をする実感。これが最大の理由だろう。満足が大きい。これまで僕は日本中を旅してすっかり飽きていた。オートバイ、それから車。全然楽しいと思えなくなっていた。退屈なのだ。しかし自転車は違う。もう全然違う。人力で旅をする満足は大きい。だから自転車に夢中になる。旅をする動物であるヒトの遺伝子が活発になるのだろう。きっと本能だ。

もし自転車で旅をしようと思うならば、あまり真剣になりすぎないことが大切だと思う。専用の道具をあらたに買い揃える必要はない。ママチャリでもいいし、ホームセンターのMTBでも十分に使える。モンベルのMTB装備で固める必要なんて、全然ない。第一、サイドバックを前後につけたら、4つのバッグに囲まれてもう自転車は移動する家になってしまい、本来の機能が半減してしまう。たとえば登山を好んでする人ならば大型ザックを持ちその中にすっかり収納できる自炊具やテントや寝袋を持っているだろう。それを担げばすぐにだって世界中を旅できる。多少腰にくるが、機動性に富んでいて僕は好きだ。僕が旅の準備であらたに購入したものは自転車用の水筒を新しくしたのと携帯用の空気入れだけだ。あとは登山の準備だけで20年ぶりにチャリダーとして復活することができた。動機はというと、冬山シーズンに向けたトレーニングという意味合いが最も濃い。実際、旅をおえて僕の太腿はひとまわり大きくなり、特に腿の裏には覚えのない力コブまで出来た。また全身の筋肉がしなやかになった。しかし期待していた体重はあまり減らなかった。つまり筋トレにはいいけれど、運動として激しくないのでダイエット効果には疑問アリというわけだ。皮下脂肪は相変わらず分厚い。ちょっと残念。かなり残念。

自転車旅行は冒険ではない。やろうと思えば誰にでも出来る。運動としても激しくはないから、あまり深刻に考えなくてもいいだろう。通勤通学に自転車を使っていた人ならば、日常の延長と考えてもおかしくはない。

もしあなたが新しい発見をしたいのなら、自転車の旅は素晴らしいヒントを与えてくれると思う。だってヒトの足は旅をするために神様が与えてくれたものなのだから。僕がテレマークスキーが好きなのはその驚くべき性能ではなく、現在のスキーの原型をよく留めた「足をつかって旅をするための道具」としての完成度が好きなのだ。だから僕は大胆なエクストリームスキーよりも自然を歩き回るスタイルを好む。 凄い斜面を滑ったゼ、という話にはあまり興味が沸かないのだが(一応合わせるフリをするが)、すごいところに行ったんだゼ、という話にはカッコイイ!と驚き、心底感銘してしまう。

どんなに雪が降り積もってもテレマークスキーがあればどこまでだって行ける。そこがMTBと共通している。テレマークスキー仲間の多くが夏はMTBに乗る。 カヤックを漕ぐ。旅する道具だから好き。きっとみんな同じなんだと思う。

有史以前から人間は旅をしてきた。海峡を渡り山を越えて移動を繰り返してきた。そして新しい発見をし、新天地を見つけ、新たな仲間と出会い、そうやって進化を続けてきたのだろう。だから僕らの遺伝子には旅をするために必要な情報がいっぱい詰まっているはずだ。それを確認するために旅をするのも、きっと素敵なことだと思う。

旅を終えて思った。僕の店「ガイドの山小屋」はアウトドア・カンパニーとして利益を追求する会社ではなく、これから先も旅を続ける旅好きのための店であり続けたい。夏はマウンテンバイクに乗り、冬はテレマークスキーで雪山を歩く。仕事を終えて飛行機に乗れば、誰もが翌日の午後には大自然のなかを旅するもうひとりの自分に、いや、人間本来の姿を取り戻すことができる。いつまでもそんな店であり続けたいと思う。

 

2004年12月13日 雪の北海道にて


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