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Stuart Highway 3080km INDEX 目次
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第四週 シンプソン砂漠 国境(ノーザンテリトリー&サウスオーストラリア州境)
赤い大地。 午前中の空は淡い。午後には真っ青になる。 第四週目(1) 恩人ニック タナミ砂漠からの脱出 ほうぼうの態でバロークリークのパブに辿り着いた。 車が2台、のんびりしている。物音もない。 木陰には、何も用事はないけど、とりあえず来てみたふうのアボリジニのおばさんたち2人。このへんの原野に住んでいる部族だろう。それからトヨタのピックアップトラックが1台。いつもどおりのアウトバックの風景だ。 パブに入る。ドアを押す。カランカラ〜ンと、鐘が鳴る。 とりあえず、牛乳とオレンジジュースを1ℓずつ買う。一気に飲む。これも、いつもどおりだ。 人工的に冷やした飲み物を急激に体内に注いだものだから急激に体温が下がる。くぅぅぅぅっ!と声にならない呻き。後頭部が冷えて、目がくらむ。力が抜ける。 ほっとした。 やれやれ。どうなるかと思ったぜ。 パブのお姉さんに明朝4時にここを通るバスに乗りたいんだけどテント張ってもいいですかと聞く。見たところここにはキャンプスペースはなく、宿泊の部屋もないようだったからちょっと不安。アボリジニがいる土地では地べたにゴロ寝は非常にまずい。 テントはオッケーだった。中庭のようなところに張らせてもらえるという。 よしよし。 そしてバスの予約。なんとなく世間話になる。どうしたの?みたいなかんじ。 「エ〜、ワタシニホンジンデス。自転車コワレマシタ。困ッタ困ッタ。アリススプリングスマデ行キタイデス。アリススプリングスデ私ノ自転車ヲ直スネ。」 こんなかんじ。 「じゃあニックに乗せてもらえば?ほら、あのトラックの!」 おおお〜。渡りに船とはこういうことを言うのか。そのピックアップトラックは、これからアリススプリングスまで帰るのだという。 ニックは少し神経質そうな小柄な青年だ。30歳くらいだろうか。自己紹介と、それから事情を話して乗せてもらえるよう交渉してみる。3分間くらいだと思うけど、僕のありったけの英語力が試された3分だった。僕は必死だった。 交渉は成立した。こわれたMTBで砂漠を90km走るよりも消耗した。 僕のMTBは荷物をすべて降ろしてニックのトラックの荷台に載せられる。しっかりロープで結わえられた。ニックは何でもかなりキッチリする人らしい。 そして出発。さらばバロークリーク。滞在は、わずかに30分くらいだった。 「ひやっほ〜!!」 えええー!!!!マジメ青年だと思っていたニック青年は、実はハイウェイの暴れ者だったらしい。おいおい、いきなり時速120キロかよー! 僕はさっきまで時速6〜7キロでよろよろ走っていたのだ。そのギャップたるや尋常ではない。恐怖を通り越して、パニックだ。一瞬でフリーズしてしまった。 でもどうやらコレがスチュアートハイウェイでは当たり前のことらしいと理解するのに大した時間はかからなかった。車を飛ばすのはボクも嫌いではない。 ここからアリススプリングスまでは280km。この調子でいけば2時間半で着きそうだ。ニックは2時間で着くという。おいおい、2時間半上等。2時間半でいいから。と、英語で言った。言わないと本当に150キロで走ると思われたから。 英語力が試される2時間半。車内にはふたりっきりだから逃げ場はない。これはこれで、かなりタイヘンだ。右手には電子辞書。手のひらが汗ばむ。 ボクの1日行程をニックのトヨタはたった1時間ですっ飛んでいく。なんだか馬鹿馬鹿しいなと思う。オレは何をやってんだろう? ニックはこのへんのロードハウスの御用聞きが仕事なんだという。買い物をしてあげたり、ロードハウスの経営者のかわりに銀行まわりをしたり、郵便物まで届けてまわっているという。確かに、こういうニックのような人がいなければ、アウトバック(奥地)のパブ(ロードハウス)は完全に孤立してしまうだろう。業者からの仕入れはできても、日々の暮らしに必要な歯磨き粉やブラジャーや文房具を買ったり、月末までに給食費を納入したりできないだろう。何百キロも離れた奥地では、ニックのような人が必要なのだ。 ニックは毎日、演歌(カントリー)を聴きながら、時速120キロでトヨタのピックアップトラックを飛ばすのだ。赤い砂ぼこりを巻き上げながら。 ボクの年齢をきいてニックは目を丸くした。子供が3人いるというと、ハンドルから手を離して頭をかかえた。おいおい!120キロだっちゅ〜の! 南回帰線の話、野火はなぜ起こるかという話、昔の井戸にまつわる話、砂漠のスイカの話、イーグルとカンガルーの話、1年に20日だけ降るというアウトバックの雨の話、日本の北海道の雪の話。日本の女の子と仲良くなるためにはどうすればいいか、の話。いろんな話をした。 こうして僕らはけっこう仲良くなったのだ。
夕方、アリススプリングスに着く。砂漠の峠をぐぉ〜〜んとダウンヒルしたら、いきなり町に吸い込まれた、みたいなカンジで大きな町があった。 ニックは知り合いの自転車屋を紹介してくれて、わざわざ店まで連れて行ってくれた。この町には自転車屋は2軒あり、こちらは技術系が得意で、もう1軒は「買い物にいい」そうだ。いわゆる販売が得意で商品が豊富なのだろう。もちろんボクの自転車は技術系の店に持っていく。 店の名前は「ブロークン・スポーク」(右) ぴったりじゃないか!そう言って僕らは笑い合った。 店に自転車を預けて、そのまま町のYHAの前まで送ってもらう。夕闇が迫っている。たった3時間だったけど、僕らの間には友情が芽生えた。別れが辛い。 本当に本当に、僕のような通りすがりの得体の知れない東洋人に、ここまで良くしてくれるなんて。僕が逆の立場だったら、ここまで出来るだろうか? 感謝の言葉もない。 ありったけの言葉を動員して礼を述べた。乏しい僕の英語はすっかり出尽くした。あとは最上級表現だ。サンキューマッチモア。ベリーカインドオブユー。キミのことは忘れないよ。そして最後は日本語になった。ちゃんと伝わっているようで可笑しかった。 お礼にと思ってビールを半ダース買っておいた。お金は受け取ってもらえないと思ったから。そんなことしたら無礼になるだろう。しかし、ビールすら受け取ってくれない。 ニックはそんなことしてもらっては困ると言い張って引かない。 「じゃ一緒に飲もう」といって半分だけ受け取ってくれた。 グッドラック、ツヨシ! ノーザンテリトリーは最高だねニック! 見えなくなるまでニックのトラックに帽子を振り続けた。
ありがとうニック。君のおかげでタナミ砂漠から脱出できた。 君から受けた恩は必ず返す。 日本に来ているオーストラリア人に。
第四週目(2) アリススプリングス 自転車の修理&体力充電Days! 大陸縦断鉄道「ザ・ガン」もアリスでひと休みする。 アリススプリングス。人口2万5千人。北海道でいえば富良野くらいの印象といっていい。 オーストラリア大陸のほぼド真ん中に位置しており、周囲を砂漠に囲まれている。町の中央にはトッド川という大きな川があり、どっと水が流れていると思ったら、水が流れることはほとんどない という。アリスの泉(スプリングス)という河床にある湧き水が町の名の由来なのだという。 内陸部の乾燥地帯には、このように井戸の名や泉の名など、水源に由来する名が多い。この地で生きられるか否かは、水を得られるかどうかにかかっているということがよく理解できる。オーストラリア内陸の開拓の歴史は水をめぐる壮絶な闘いの歴史なのだという。たくさんの人が水を求めながら亡くなった。昔も、今も。 MTBが壊れ、もう旅は続けられないかもしれないと覚悟したが、前述のニックとの出会いがきっかけで旅は後半に向けて始動したようだ。まずMTBは翌日には元通りになった。痛んでしまった日本製チューブは3本ともすべてオーストラリア製に買い換えた。 「こんなペラペラじゃダメだよ!」自転車のオヤジは吐き捨てるように言ってボクが持ってきた3本の日本製チューブをゴミ箱に放り込んだのだ。 なるほど、オーストラリア製MTBチューブは恐ろしく丈夫だ。分厚くて重たい。なんとオートバイ用と同じ規格で作られている。こんなに重たいとしんどくないか?心配になるほどだ。 重量は日本製MTBチューブの2倍ある。なるほど、これならば気温50度でも破裂したり熱で劣化することはないだろう。付け替えられたタイヤはパンパンに空気を詰められていた。マジですか!これでバーストしないんですか! ぐんにゃり車輪は新品同様に生まれ変わった。気になっていたブレーキの不具合も元通り。さて、修理代はかなり高いこと言ってくるんだろうなと思ったら、考えていた金額の半額だった。嬉しかったので、いずれどこかで買おうと思っていたワイヤー鍵をここで買った。オーストラリアの治安はまずまずだが、窃盗は多い。ボクのチャリの鍵がヤワなことについてはいろんなところでルームメイトに注意されていた。これで大丈夫だ。後半の旅にむけて不安はない。 身体もリフレッシュに努める。いつものように午前4時には目が覚めるけど、別にすることもないのでウダウダして、のんびり朝シャワーを浴びて丁寧に朝食を作った。いつもならば必死でペダルを踏んでいる時間にプールサイドでぼんやりコーヒーを飲んでいるなんて。妙な気分だ。 仲良くなった日本人の女の子とおしゃべりを楽しんだり、スーパーをうろうろしては美味しそうな食材を探すのは悪くない気分だ。ルームメイトはフランス人、ドイツ人、オランダ人そして僕の4人。みんな旅のエキスパートで世界中を旅している。旅の話はスリリングで楽しいものだ。フランス人はしきりに女の子と仲良くなりたがっていた。 それにしても、よく食材が盗まれる。YHAやバックパッカーには共同のキッチンがあり冷蔵庫も共同で使えるようになっている。食材は名前と日付を書いて入れておくのだが、僕のビールは2本ともあっという間に盗まれた。牛乳もオレンジジュースも中身が減っていくし、食料袋はなんとなく物色されたようなあとがある。部屋のなかでは大丈夫なのだが、不特定多数が利用する共用部分では盗難は少なくないようだ。 みんな同じようで、日本人同士でおしゃべりになると決まって食料盗難の話が話題になる。みんな、それなりに対策を講じているようだった。 MTBの駆動部のクリーニングを行ったり、アンザックヒルというメモリアルのある小高い丘を登ってトレーニングしたり、別の自転車屋にいってパンク修理剤や新しいグローブを購入したり、あてもなく散歩したりしてアリススプリングス・ライフを楽しんだ。4泊のんびりしたおかげで体は元気になり、ひどい日焼けで顔や唇がボロボロだったけど、これもずいぶんと改善されたようだ。 第四週目(3) エアーズロックは遠いよ。 遠いっちゅうねん! なかなかアリススプリングスを出発できない。根が生えたのだろうか。 11月16日。 出発しようと朝起きるとひどい風だ。しかも南風で、僕にとっては向かい風だった。出発を見送る。 1日をだらだら過ごす。町で見つけたアウトドア屋さんでホワイトガソリンを購入した。僕のMSRはずっと自動車ガソリンを使っていたのだが、煤が多いのと微調整ができないことが難点だった。これで幾分改善されるだろうか。 ***** 11月17日。 こんどは出発日和だ。暗いうちに部屋から荷物を搬出して、キッチンで簡単な朝食をすませて東の空が明るくなったころ出発した。仲良くなった日本人の女の子Nちゃんにはお別れを言えなかった。前夜に「きっとまたどこかで会えると思うよ」とだけ言っておいた。いまでもタレントのMEGUMIをみるとアリススプリングスのNちゃんを思い出す。捻挫した足を引きずってまでエアーズロックに登ったというNちゃん。そろそろ捻挫は治っただろうか。 走り始めは少し肌寒い。気温17度。寒くって震えさえおぼえる。8時になっても25度しかない。暑さに体が慣れたため、逆に寒さに弱くなったらしい。 1時間もすると周囲の風景はいつもの砂漠にかわり、僕は完全にひとりぼっちになった。これから再び南へ、1500キロひたすら南を目指すのだ。 南太平洋へー。 新しいチューブを装着したタイヤはおそろしく快適だ。空気をパンパンに入れているのでよく転がる。チェーンも洗浄したので音が全然ちがう。ただ、いちばんよく使うスプロケット(ギア)が磨耗しているようで、少しばかり違和感をおぼえる感触が伝わってくることがあるが、まあ1500kmくらいなら大丈夫だろう。 92km走ってスチュアーツ・ウェルのパブに着く。「スチュアートの井戸」、だ。ここの地名も水に由来している。人口0人。パブがあるだけ。 ここの水は砂が多く混ざる。いったん沈殿させてから使った。 ***** 11月18日。 5:20出発。中央砂漠は朝の気温が低い。今朝も16〜17度。涼しいというよりも寒くって参った。風景は岩と赤い砂の広がる大地 。地平線の果てまで風景は変わらない。いよいよシンプソン砂漠の奥深くに入ってきたようだ。 9:00、気温25度。10:00、気温30度。快適このうえない。40〜50kmおきに休憩エリアがあり、屋根のあるベンチと雨水をためたウォータータンクがあった。アリスでの休暇のおかげもあってすこぶる 体調もいい。 11:00、気温40度。6時間で108km走ってエルダンダに到着した。エルダンダのロードハウスは立派な施設だった。よくあるパブだけ、ということはなく、キオスクのほかにテイクアウトとレストランがあり、ミニスーパーまで併設されている。宿泊棟もリゾートのようで、アプローチには白い砂利が敷き詰められていた。ここにはコテージタイプのモーテルユニットから 経済的なバックパッカールーム、キャンプエリアまで整えられていた。 エルダンダはハイウェイ上の分岐点になっている。すぐ南には州境があり、ハイウェイはそのまま南太平洋へとまっすぐ大陸を縦断する。西へ向かうと有名なエアーズロックに至り、その気になれば入念な準備を整えてそのまま砂漠を西へと横断して、西海岸のパースに行くことだってできる。ただ少しばかり冒険的ではあるけれど。 エアーズロック。これが少々遠い。 右の写真はエアーズロックではない。似たような山をときどき見かけるのだ。 オーストラリアといえばまず思い浮かべる観光地がエアーズロック(ウルル)。観光客が必ず訪れる場所だ。アリススプリングスはエアーズロックへと向かう最寄りの町で、ここエルダンダはハイウェイ上の分岐点 というわけだ。しかし、近いとはいってもここからエアーズロックは東京と名古屋くらい離れている。しかも自転車なので、「ちょっと名古屋まで・・・」というわけにはいかない。また、行けば行ったで、アデレードに向かうためには再び帰ってこなくてはならないわけで。 エアーズロック。ちょっと遠い・・・。1週間は余計にかかるだろう。 諦めた。目的を達成するまでは、観光はおあずけ。 ***** 11月19日。 次の目的地Kulgeraは比較的近いのでのんびり8時に出発した。 きょうもド・ピーカン。出発時すでに気温は30度もあった。きょうも岩と赤い砂とまばらなソルトブッシュがぼさぼさ生えているだけの単調な風景のシンプソン砂漠のド真ん中をゆらゆら走り続ける。 標高がじわりとあがる。気温もじわり上昇傾向。11時には37度に達する。 正午頃、カルゲラ到着。気温40度。ここまでならば十分に耐えられる。 ロードハウスの宿泊棟に部屋を借りた。部屋に自転車を持ち込み、タイヤを分解してメンテナンスを行った。もう全く心配はないようだ。部屋もエアコンがよく効いて気持ちいい。洗面所でたまった洗濯をした。風が強いのと気温が高いのでたちまち乾燥した。 バスルームで飯を炊く。外は暑くて死にそう。 明日は砂漠の180km区間だ。気温もぐいぐいあがってきた。明日にそなえて電解質とカロリーをたっぷり含んだスポーツ飲料の粉末をたくさん 溶かしてドリンクをつくる。さらに砂糖もいれる。これで乗り切るのだ。 早く寝よう。明日は早い。 ***** 11月20日。 午前5時出発。20kmほど走って州境に至る。ここには係官事務所はなく植物検疫もパスポートチェックもなく、あっさり通過したので拍子抜けした。 さよならノーザンテリトリー州。ものすごく広かった。そして暑かった〜〜。 さて、南オーストラリア州に入ったからといって何もかわらない。舗装状態も同じだし、道路標識もほんの少ししかかわらない。休憩所のベンチの種類とウォータータンクの注意書きが変わったくらいだ。 午前10時、気温40度に達する。空は真っ青。太陽ギラギラ。まだまだ暑くなるゾという実にわかりやすい予告を突きつけられる。東の風がやや強い。 正午、気温は44度。ひたすら水を飲みつづける。 自転車の金属部分が熱くなっていて触れると飛び上がる。息も熱くなってきたようだ。体温があがってきたかもしれない。この熱気のなかでMTBを漕ぎ続けるにはちょっと危険だなと思いはじめるが、休憩できるところが どこにも見当たらない。 日かげがどこにもない。あるのは赤く焼けた大地だけ。地平線の先まで、そんな状況だ。変化はない。 やばいかも? 体温調整機能を働かせるためには、ともかく水を飲み続けるしかないという。脱水になればたちまち体温は上昇して熱病の状態になり、危険な症状に陥る。いわゆる 「熱射病」で、多くの砂漠のツーリストがこれで命をおとす。水を節約 したいところだけど、努力や根性だけではどうにもならない。体温が保持できなければ命にかかわるので、ひたすらたくさんの水を飲み続け 、積極的に小便にして体内の熱を排出するよりほかにない。 体温調整機能を活性化させるのだ。 人間の体は、たくさんの水を飲むことで気温45度のなかにあっても体温は37度台に保たれる。水をガブガブのみ、どんどん小便をして熱を排出する。これだけでいい。水だけで5〜8度もの温度差を乗り切れるのだから。人間の体というのは、なかなかやるものなのだ。 電気もガソリンも必要ない。超ハイブリッドなのだ。エコなのだ。 20分おきに300ccくらいの水分を繰り返し飲む。昼過ぎまでに7リットルが胃袋に消えた。それでも小便は少量だった。どうやら軽い脱水状態にあり、もっと飲まなければ十分とはいえないが、さすがに吐き気をおぼえる。 出発から8時間後、45度の熱気のなかを走り続けてマーラのロードハウス(以下RH)に到着。180kmを8時間で走行したのだからそこそこ快調といえるが、それでも着いたときはへろへろだった。 「マーラまで5km」の看板をみたとき、まだ5キロもあるなんて…。と、絶望感でその場に崩れ落ちそうになった。あまりに熱すぎる。あと20km走っていたら、あるいは向かい風だったなら、僕は途中で力尽きたかもしれない。 この日は順風だったので、ラッキーだったにすぎない。 南オーストラリア州に入った途端に補給地点の間隔が大きく開き、次の目的地がとても遠くなった。これでは1日走って次のパブへ、という具合にはいかないだろう。この先は砂漠でのひとりぼっちのキャンプも何度か必要になるだろう。 水の補給だけが心配だ。水さえあれば何とかなると思う。 第四週目(4) 水は命をつなぐ ある日本人の死 Marla,マーラ。人口約150人。マーラでは、さしたる理由もないのに連泊することに決めた。あいかわらず周囲は砂漠で何もないから、やることは何もない。相変わらず晴天で、 攻撃的に暑い。きょうも間違いなく40度を超えるだろう。 寝坊してやろうと思ったがそれでも6時には目が覚めてしまった。クッキーとカフェオレで簡単な朝食をとる。北風が吹いており、この風に乗れば南下する僕にとっては快適だけど、連泊は決めたことだから気にしない気にしない。 ここマーラは完璧なロードハウス(RH)だ。ガソリンスタンド、スーパーマーケット、テイクアウトとパブレストラン、郵便オフィス、ポリスデスクまでありちょっとした町の機能が備えられている。きっと国境(州境)が近いことと無縁ではないだろう。宿泊棟も なかなか立派だったが、ベッドのうえにカブトムシかと思うくらいの大きなゴキブリが悠々と歩いているのを見て閉口した。またタップウォーター(水道水)が若干、塩辛い。 グレートセントラル(内陸中央部)に入ってからというもの、水に塩気を感じることが多くなった。多くはポンプで汲みあげた地下水だが、その地下水がソルトなのだ。ここマーラでもシャワーを浴びたあと髪が 塩気でベタベタする。まあ、塩分摂取を意識しなくても十分な塩分を摂取できるのだから良いかもしれないけど、しかしながらコーヒーやお茶がうまくない。だから雨水タンクをさがして飲み水を汲んできたりした。 ***** ヒマなのでロードハウス(RH)の周辺をうろうろする。カフェに座ってコーラを飲みながら行きかう車や人を眺める。RHは繁盛していて、アウトバックを走り抜けていくツーリスト たちの車が給油と食べ物を求めて次々とやってくる。朝10時を過ぎると幾分おだやかになったが、それでも訪れる人が途切れることはなかった。 ミネラルウォーター片手にRHのまわりをウロウロしていたとき、敷地の外れのソルトブッシュの樹が気になって近づいてみた。樹の下には何かがある。タテ40×ヨコ20センチメートルくらいの長方形のステンレス製の板がキラキラしている のが見える。胸騒ぎがする。引き寄せられるように、ソルトブッシュのそばに行ってみた。 僕はそのとき何か、予感のようなものを感じていた。僕にはささやかだけど、霊感に似たものがある。僕が理由もなくマーラで連泊することになったのは、たぶんこれと関係があるはずだと思った。 メモリアルらしい。そこに英語で書いてある文章を読んだ。 以下、日本語訳(一部伏字) Y.●●● (19**年*月〜19**年*月) 1994年3月、 彼は、マーラから北へ5kmの地点で倒れているところを ※親切なサマリア人によって助けられましたが、 懸命な救命措置にもかかわらず、残念ながら亡くなりました。 彼はニッポンの北九州で生まれ育ち、当時は東海大学に通う大学生でした。 彼は冒険好きで勇敢な青年で、礼儀正しい紳士でした。 この慰霊碑は彼の両親と姉によって立てられました。 1997年3月 ソルトブッシュの木陰にひっそりと立つ慰霊碑
※善きサマリア人の法、「災難に遭ったり急病になったりした人など(窮地の人)を救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人ができることをしたのなら、たとえ結果が思わしくなかったとしても責任を問われない。」という趣旨の法。
彼は、僕と同じように北から南へ向かっていたのだろうか。徒歩か、あるいは自転車だろうと思われる。3月といえば、まだ真夏の暑さだったことだろう。 マーラから北へ5`の地点といえば、僕がうんざりして一気に脱力したところだ。猛暑のなかの砂漠縦断180km区間は、あまりに過酷だった。 それにしても、きっと誰もが「あとたったの5キロなのに」と思うことだろう。しかしながら、あの「マーラあと5キロ」の看板を見た瞬間、 脱力して一瞬にして崩れ落ちる気持ちは僕には痛いほどよくわかる。 極限状態のときの“あと5キロ”は、あまりにも遠すぎるのだ。 砂漠を走り続ける彼には、かなり前からずっと遠くにオアシスがあるのが見えただろう。暑さのなかで、水はおそらくは、とっくに飲み干していただろう。目がまわったり、力が入らなったり、幻覚がみえたりしたかもしれない。吐く息が熱かったことだろう。熱中症だ。 「なんとかあそこまで行けば。あそこに辿り着けば水がある。休める。」 疲労困憊をとっくに通り越した彼は目も虚ろで、だた生き続けるために無我夢中でペダルを踏みつづけている。彼はもう思考をする余裕はない。生きる者の本能が、生きる希望が彼にペダルを踏ませている。ゆっくりだけど、それでも少しずつオアシスの陰が近づく。 何キロか先から、その看板 は見えたはずだ。 「あれがきっと町の入り口だ。」 「あそこまで行けば、あそこに辿り着けば・・・。」 あそこまで、あそこまで・・・
ただ無心で、祈るような気持ちで、 チャリダーはペダルをこぎ続ける。 這うように辿り着く。 しかし、それが「あと5キロ」の看板だと気付く。 その先には、さらにずっと道路が続いている。残酷だ。 力が抜けて、地面に崩れ落ちる・・・。 あまりに残酷すぎる。そのときの絶望感は察するに余りある。彼はきっと小さく叫びながら崩れ落ちただろう。 そのまま、昨日までと明日からの自分の姿がだぶって見えた。 ***** しばらく慰霊碑のまえから離れられなかった。声には出ないけれど、自然と涙があふれて止まらなかった。 彼はたぶん、自分と同じように自転車でやってきた僕をここに呼んだのだろう。理解者だということも、ささやかな霊感があることも知っていたに違いない。 オレたちって馬鹿だねぇ。 彼に語りかけた。 水だね。買ってくるから待ってて。 しばらくして、RHの売店で冷たいミネラルウォーターを何本か買ってきた。 冷たいミネラルウォーターを、慰霊碑にたっぷりと注ぎかけた。ひたひたと、たっぷりと。 彼はきっと、そうしてほしかったはずだ。 うまく言えないけど、僕にはわかるのだ。 少なくとも自分はそうしてほしい。 水さえあれば、彼は死なずに済んだかもしれない。 今でもそのメモリアルはマーラのRHの北の端っこのソルトブッシュの下にひっそりと佇んでいる。 もし、これを読むあなたが、これからスチュアートハイウェイを旅しようとしているならば、 もしもマーラを通ることがあるのならば、 どうかぜひとも彼のために水を供えてきてほしい。
***** 【自転車でスチュアートハイウェイを旅する人たちへ。】 ともかく水をたくさん持ってほしい。喉の乾きを自覚するまえに、定期的に何リットルでも飲んでほしい。信じられないかもしれないけれど、1日10ℓではまったく足りない。最低15ℓ、できることならば20ℓを準備してほしい。 そして、どんなことがあっても、何があっても死んではいけない。絶望してはいけない。 もしかしたら、あなたは十分な英語力がないことが足かせになって助けを呼ぶことに躊躇することもあるかもしれない。でも、恐れてはいけない。 求めれば、助けは必ずやってくる。 死ぬときはせめて俺たちの国で、家族のもとで死のうじゃないか。 たくさん水をもとう。そして、目標を達成して元気に日本へ帰ろうじゃないか。 「暑かったぜ。水、チョ〜重たかったぜ」とか言いながら。
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第四週目(5) 大陸縦断道路 スチュアートハイウェイの国境風景 低地などで見られる野性のスイカ。ハンドボールくらいの大きさ 中身もスイカそのもの。しかし、苦くてとても食べられない。 多重連結のトレーラー、ロードトレイン。名の通り、貨物列車みたい これがハイウェイを時速120kmで走り抜けていくわけです。 開拓時代の廃墟。これは駅逓の跡。 州境の標識。まもなく南オーストラリア州に入ります。 ここには係官事務所はなく、防疫チェックも行われていなかった。 まっすぐ、どこまでもまっすぐ…。 しかし油断大敵ですよー。 100kmごとの水タンクが 辛うじて生命をつないでくれる 13:01pm、標高348m、気温45℃。
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